テクノロジーを作ることと使うことの間にあるギャップとは

※このnoteは学術系クラウドファンディングサイト「academist(アカデミスト)」さんで実施させていただいている、
人とAIが健全な関係性を築くために、技術と社会の両軸を横断したい」というクラウドファンディングに関するものです。2020年3月16日19時まで、ご支援をお待ちしております!

こんにちは。中尾と申します。
いつも応援していただいている皆さま、ご支援いただいている皆さま、ありがとうございます。

クラウドファンディング、残すところあと1日を切りました。おかげさまでご支援がさらに増えて、達成率171%となりました。セカンドゴールの200%まで、あと14.5%です。最後の最後まで頑張っていきます。よろしくお願いします!

毎日更新noteの5回目、本日はテクノロジーを作ることと使うことの間のギャップとは、です。

この二つの間にギャップがあることは、まず当たり前のことに感じられます。テクノロジーを作る人はエンジニアであり、使う人(ユーザー)とは異なる属性の人です。(エンジニアが自分のために技術を作ればエンジニアとユーザーが同じになりますが、それは現状、比較的まれなケースなのでここでは置いておきます。)

とはいえ、エンジニアはユーザーが使いやすい技術を作ろうとするはずなので、エンジニアとユーザーの間のギャップは問題はなさそうな気がします。

しかし、テクノロジーを作るという言葉の範囲を研究という領域にまで押し広げると話は変わってきます。

人工知能(AI)技術のような最新技術は、まずは学術的な研究という形で生み出されます。

そして、その後普及して一般の人に使われるまでに、社会からの注目を集め、過度に期待され、期待を裏切られたと社会から落胆され、そのあとで徐々に昔の期待に沿うようなことができるように開発が進んでいく、というプロセスを経ると考えられています。このプロセスは技術のハイプサイクルと言われています。(Wikipedia - ハイプ・サイクル

ここからわかることは、最初にテクノロジーを創り出す学術研究の段階では、一般の人から技術がどう認知されるかは精緻には考えられていないということです。まず先に技術がないと社会からの注目を集めることもできないわけです。

もちろん、研究者が社会のことを全く考えないでごりごり技術研究だけを進めている、というイメージは間違いです。例えば、工学系の論文を書く際には、序論で作ろうとしているものが社会に対してどの程度大きな意味をもつのか、といったことを論じる場合もあり、否応なしに社会的なインパクトのことを考えさせられる機会があります。

しかし、実際にその技術を生み出した後にどのようなインパクトがあるかということを示すことまでは工学系の研究者には求められていません。

工学系の研究者の主眼は、テクノロジーの可能性を最大限に活かして新しいタスクを可能にしたり、または既存のタスクをより効果的・効率的にできるようにする新たなテクノロジーを創り出すことだからです。

このことは、「人の役に立つはず」と言って作られ、鳴り物入りで登場するテクノロジーが必ずしも本当に役立つとは限らないことを意味します。実社会で検証された技術だけが注目を集めるわけではないのです。

もちろん、こうした技術中心のテクノロジードリブンな態度に対して、学術界内部からの批判もあります。

それは、例えば参加型デザインアプローチという領域の中で見られます。これは、コンピューターサイエンスをはじめとした工学分野の中に存在する領域です [1]。

参加型、というのはユーザー参加型という意味です。そもそも技術を作る時にエンジニアや専門家だけではなくて、素人のユーザーと議論しながら技術を設計することで、より人に寄り添った技術ができるだろう、というアプローチです。

個人的には、参加型デザインのようなユーザードリブンな技術開発も大事ですが、テクノロジードリブンな技術開発も同様に、車の両輪のようになくてはならないものであると感じています。

今は何の役に立つかはわからないけれども、ありえそうな問題にあらかじめ取り組んでおくことも大事だからです。今はその性能やタスクを実行する意味はほとんどないけれど、いずれ環境が整ったり社会の中で新たな問題が出た時に使える道具を増やしておく、ということは大切です。

例えば、今のAI技術は、振り返ると60年代に研究分野としてスタートしたと言われていますが、その頃は現在のような、データを用いて訓練し、モデルを構築するというデータドリブンのアプローチは主流ではありませんでした。

そのアプローチが主流になったのは、95年ごろからのインターネットの普及、その後の膨大なデータの蓄積、2010年ごろからのBig Dataという言葉、データサイエンティストという職業の流行といった技術社会的要因、GPUなどのハード面での環境の発展があったからです。

その後、ディープラーニングというキャッチ―な技術の成功といくつかのセンセーショナルなニュースによって機械学習が社会的にも主流の技術になっていくことになります。

つまり、最先端の技術は、環境が整うまでは人類にとっては早すぎる、猫に小判である場合があるということです。

その、もしかすると小判かもしれない技術を創り出すことも、ユーザーにとって必ず役立つ技術を作るのと同じぐらい大切なことだというわけです。(だから研究に充てる予算というのは社会の将来のことを考えるあまり削らないほうがいいのです。同じようなことは技術研究以外の分野での研究に対しても言えます。)

少し話を戻します。以上のようにテクノロジードリブンとユーザードリブンはいずれも大事ですが、この間にはやはり大きな隔たりがあります。

その一つの要因は、ユーザーはテクノロジーのことを研究者ほどには理解しないためです。

そのため、テクノロジーが可能なことの中で、ユーザーの行動に影響を与える部分は限られています。

しかもその影響の与え方は技術には関係ないところー 例えばそのテクノロジーを利用するときの画面のデザイン、タスクに対してユーザーがどれだけ真剣に取り組むか、などー に左右されることもよくあります。

このことは、どちらか一方をやっている人に対してもう一方の領域を深く追い求めることを難しくします。

つまり、アルゴリズムを改良するテクノロジードリブンの研究を行っている人が、突然参加型アプローチやユーザー評価の研究に移ることは、スキル的な難しさだけでなくその研究者のモチベーションやアイデンティティなどにも絡んで難しい場合が出てくるということです。

となると、この二つのアプローチを一人が同時にこなすことは難しいので、もしも二つの間の弱点を補おうとするならば共同研究のような枠組みをとることになります。

ここで大切なことは、違う分野の研究者同士がお互いのことを理解し、相手のことを否定せずに接することです。専門的ではなくとも相手の分野の基本的な知識(学部程度とか修士程度と言われますがケースバイケースだと思います。)を持っておくことはかなり有益です。

ここまではどちらかというと研究者目線の話でしたが、では一般のユーザーは何を考えていけばいいのでしょうか。

一般のユーザーの立場でこうしたギャップから学べることは、何らかのテクノロジーによって自分に提示されている情報の印象は、その技術(例えば機械学習技術)自体による部分と、そのインターフェイス(スマホなのか、PCなのか、例えば検索エンジンならGoogleか、Yahoo!か、Bingかなど)による部分に分けられる、ということです。技術が同じでも、インターフェイスの部分が変わると大きく印象が変わってしまうケースがあるということです。

テクノロジーからの影響と、それ以外の部分からの影響を切り分けるように意識すると、自分を取り巻くいろいろなサービスから受けている影響を客観視できるのではないかと思います。

再び研究的な目線に戻ると、面白いことは、昨今のAI技術の研究開発の動向の中では、AI技術が出した結果を人に説明可能な形でアウトプットする「説明可能AI」や、性別や人種間で公平な意思決定を行う「公平性配慮型AI」など、人や社会にかなり近い領域で最先端の技術開発が行われていることです。

もはやテクノロジードリブンな見方もユーザードリブンな見方のどちらもが常に必要になっているというのが、現在のAI技術の研究を取り巻く環境です。

今回行っているクラウドファンディングの成果では、そうした現状を考慮しつつ、社会的な見方が最先端技術の開発に影響を与えていくということを議論していきたいと思っています。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。興味を持っていただけた方で、ご支援まだいただけていない方がいらっしゃいましたら、ぜひクラウドファンディング「人とAIが健全な関係性を築くために、技術と社会の両軸を横断したい」のご支援もよろしくお願いいたします。

明日は毎日更新noteの最終回ということで、今後、人とAIの関係はどうなっていくのか、ということを書いてみようと思います。

本日もありがとうございました!

参考文献:
[1] Keld Bødker, Finn Kensing and Jesper Simonsen, 2009, Participatory IT Design: Designing for Business and Workplace Realities, MIT Press.


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