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雑誌『apartamento』 のインテリアが意味するもの

apartamento』というインテリア雑誌がある。スペイン発の一風変わったインテリア雑誌(表記は英語、日本版は和訳付)として熱心な読者を世界中に持ち、2008年の創刊以来、年2回ペースで発売するたび売り切れ、バックナンバーもほとんど売り切れ、スペインで€15で売られているものが日本だと3,000円ほどで売られていて、厄介なことに古本になると5,000円-8,000円前後(!)で取引されていたりする大変手に取りにくい雑誌のこと。

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私がよく買っていたのは2012年頃のことだけど、そのときよりもぐっと高くなっていて、さらに手に入りづらくなったと思う。高価な輸入雑誌が以前ほど売れなくなっているのかもしれない。apartamentoと並んで『IDEAT』(フランス)、『Anthology』(アメリカ、2015年廃刊)、『KINFOLK』(アメリカ)を背伸びして買っていた私自身も、値段があがっていくにつれて毎号のようには買わなくなってしまっていた。

それでもapartamentoのことは度々頭に浮かんだ。どんなお店を開きたいのかを悶々と考えるとき、人間関係について考えるとき、スタイルや洗練について考えるとき。部屋のインテリアに止まらず、物事の内と外に思いを巡らせるとき、自分の内面にこの雑誌がどれだけの影響を密かに与えてきたのか思わずにいられない。

この雑誌が「一風変わった」というふうに他のインテリア雑誌と区別される理由は、取り上げるインテリアが一般的に見て美しいとは限らない(ex.雑多な本棚、食器の片付いていないキッチン、ものが積み上がっているダイニングテーブル...)という大胆さ、それをさらに個性的に見せている独特な写真、実験的なエディトリアルデザイン、そして取材先の多くが錚々たるアーティスト、クリエイター、セレブリティの住まいだということだろう。

3人いる創設者のうちのひとりでグラフィックデザイナーのOmarは上記インタビューでこんな風に話している。

Omar:アパータメントをはじめたきっかけは、はじめに言ったように、きれいに整理整頓された部屋や完璧すぎる部屋を特集している雑誌に疲れていたから。「すべてが完璧でなければならない」「本の位置も向きもこうでなければならない」っていう生活って、誰もがしているわけがない。人々が生活している本当の部分を見せたかった。

だから「誰も見ていない時、あなたの日常がどのように過ごされているか」というコンセプトはとても大事なわけで。誰かの家を訪れるときに、フォトグラファーには、できるだけ自然体で部屋を撮影してもらっている。住人がいつも通りの日常を過ごしていることを写真からも読者に感じてほしいから。それを偽ると、生活感を伝えるのは難しい。
……
他のインテリア雑誌は、インテリアや建築だけにしか焦点を当てていない。でも僕たちは住人と部屋のつながりを見せたいし、その人が興味を持っているものがどのように部屋や家に表現されているかを見せるのが大切だと思っているんだ。できるだけ住人の個性を大切にしているから、Airbnbみたいな(普遍的な)デザインの家は取り上げないな。

「誰も見ていない時」というふうな言い方をしているところが好きだ。それは他の誰のためでもないそこに暮らす人のためだけの「必要」や「安心」や「遊び」が見えてくる時なのだと思う。

少しだけapartamentoから離れて、もう少しこのコンセプトについて話したい。

私自身、大学の卒論では「世界のまなざしと原風景の狭間を生きる MY ROOM IS A SELFPORTRAIT OF WHO I AM」と題し、部屋にあるものと自分の内面との関係について書いているのだけど(本当に同じことばかり考えているのだなと思う)、M.チクセントミハイ E.ロックバーグ=ハルト著『モノの意味 大切な物の心理学』に書かれていた膨大な調査・インタビューはたくさんのヒントがあった。少しだけ卒論から該当部分を抜粋。

家に見る自分の内側の世界。そこにある景色は、自分を作り上げている根柢の部分であり、それぞれの人が持つ原風景である。私たちは家にモノを置く時や飾り付ける時、モノを購入する時や捨てなければならない時に、それらはほとんど無意識的に選択され、自己の内面に関わっていることとは考えない。しかし、その無意識に目を向けることが私たち自身を知ることに繋がっていく。暮らす場所としての家に「無意識的に選び取られて」置かれたモノがどれだけ自己の内面の形成に関わっているかということについて、チクセントミハイは以下のように述べる。

……しかし、家庭にはきわめて特別な物がある可能性が高い―つまり、それらは日常的な注意を集めたり身近に置いたりするために選ばれた物であり、人の私的生活に永続性をもたらしうる物であり、それゆえ各人のアイデンティティ形成にもっとも関わりが深い。少なくとも家庭内にある物は、所有者の内面をあらわしている可能性が高い。家庭外で出会う物を統制することは不可能に近いが、家庭内の持ち物は選ばれたものであり、もし自己との葛藤が大きくなるようであれば、いつでも捨てられる。このように、家庭の持ち物は、所有者の自己の姿を反映するばかりでなく、それを《形成する》記号の生態系となる(M.チクセントミハイ E.ロックバーグ=ハルトン 2009: 20)。

この本と近い印象を受けたのがミランダ・ジュライ著の『あなたを選んでくれるもの』だった。著者がフリーペーパーに売買広告を出す人々を訪ねて話を聞くなかで、それぞれの「もの」や個々の生活が訴えかけてきたことを綴った本で、ものと人の生活に焦点を当てていることも、舞台がアメリカであることも、前出のチクセントミハイの著作と一致している。けれど、ミランダのほうは売買広告に出されているものを出発点に取材しているので、人が何かしらものを「手放したい」と考えているタイミングで話を聞いているところが大きく異なる点だろう。

捨てられるものと捨てられずにまだ部屋にあるもの、それらの関係や差異、類似点。一見無関係に思える雑談から立ち上るパーソナリティ。

取材の起点は違えどふたつの本の印象に近しいものを感じたのは、人が何かを買いたい、持ち続けたい、手放したい、と思うエネルギーは同じように意志のあるものだと自分が考えているからだろう。

apartamentoに話を戻そう。

先日、今のところの最新刊にあたる#26を近所にあるニューススタンドで買った(最初に訪ねて行ったときにはやはり在庫がなくて、でも他店の在庫をすぐに取り寄せてくれて購入できた)。久しぶりにバックナンバーではなく新刊のapartamentoを読んだ感想は、彼らが創刊当時から貫くこのインテリアの取り上げ方がやっぱり好きだな、に尽きた。

敢えてapartamentoの惜しいところをあげるとすると、最初に紹介したインタビューでOmarが自ら告白しているように、取材対象がアート関係や著名人に偏っているところだと思う。M.チクセントミハイの調査やミランダ・ジュライの視点が示すように、誰も興味を持たないと思われてしまうようないち個人の部屋やもののひとつひとつもストーリーがあり、見るほうに感じる心得があれば見えてくるものもあるし、暮らす人が語って見えてくるものもたくさんあるだろう。

政治家の人たちのインテリアを毎号見たいとは思わないけど、いろんな稼業、いろんな国のひとたちのインテリアをapartamentoの取り上げ方で見ることができたら。「誰も見ていない時」に限りなく近い住人とインテリア(あるいは取材のために装っていることを”あるがまま”に見せる)の写真を取材でとってくるのはとても難しいと思うけど、矛盾するようなその状況をどう写してくるのかという不安定な要素もapartmantoを読む大きな楽しみになっている。

そして、どうして私がこんなにapartamentoを語ってしまうかというと、私も彼らが追求しているような「誰も見ていない時のあなたの日常」にお店という形で携わりたいと願っているから。

他の誰のためでもない、そこに暮らす人のためだけの「必要」や「安心」や「遊び」に役立つかもしれないものを揃えたり、どういうものがほしいのか(いらないのか)を想像する機会をつくったり、遊びが人を元気にすることについて語り合っていけるようなお店。切実さと遊びと、それらが私たち的には全く矛盾しないということをやっていきたいと思っている。

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