正論の信頼と安心と無知の戦争

スーパーから納豆が消えたので、姉が烈火の如くキレ散らかした。
姉は生来の納豆愛好家である。週に最低4パックという中途半端な消費をし、多い時には一日に1~2パック、単純計算で10パック前後という、やはり中途半端な消費を繰り返す。せめて3の倍数にしてほしい。なぜ1パック余分に食べるのか。冷蔵庫で揺れるフィルムラベルの虚しさを見よ。
20年代アメリカの消費社会を局地的に再現しても、3パック1セットが70~80円台で販売されている我が愛すべき地域では、家計に衝撃を与えるほどではないので、食費の半分を担っている私も姉の納豆中毒に関しては放任主義を決め込んでいる。
しかしながら、スーパーのチルドコーナーの一角が空になったままの状態を1週間も見続けると、はて、日本食離れが進んでいると聞いていた現代日本において、姉が掃除機のような速さで消費していた納豆は、本当に納豆だったのだろうか、というゲシュタルト崩壊を起こしかけた。
事の真相は、などと勿体ぶった言い方をしなくても、明白である。
どこぞの馬鹿が、納豆を食べていればコロナウイルスにかかりにくい、と言い出したのが、全国的に納豆の存在が消えかけている原因だ。
専門家ではないので、あまり断言するようなことは書きたくないのだけれど、生まれながらにいくつかの病気を持っている手前、少しばかり勉強した知識を書くなら、納豆は確かに免疫力を上げる作用はあるが、それは年単位の長期的摂取をしていた場合の、所謂、食事制限の副産物的なものであって、今このウイルスが拡散され続けている状況で、ものの数回、一時的に摂取したところで何の意味もないのである。

上記の発言はSNS発信だったらしいが、日本全国の納豆が消える現象が起こったのは、この時期に放送される健康番組が、偶然にも、タイミング的に重なってしまったからではないかと私は考えている。
テレビの健康番組にはオヤクソクがある。
件のウイルスの影響ですっかり影が薄くなっているが、本来であれば、今この時期はインフルエンザの流行期である。また、年度末を間近に控え、学生は試験、社会人は決算など、忙しくなる時期でもあり、体調を崩せないという意識が高まる時期でもある。
これに備えて、テレビの健康番組では、早くは前年末、遅くとも一月末ぐらいに「免疫力特集」が行われるのである。今季は、やはり、件のウイルスのせいか、今もなお免疫力に関する特集が放送されている。
そして、この「免疫力特集」で取り上げられることが多い食材が、納豆、生姜、ココア(カカオ)、トマトなどである。出演者がまるで「え~! 初めて知りました~!」などという態度を取っているが、残念ながら演技である。前年もやっている。女性が男性に使うさしすせそと同じで、一種のオノマトペである。大半の視聴者はそれを分かっている。世知辛い。

我が家では父が極度のバラエティー番組嫌いだったため、夕食時に視聴するのはクイズ番組か雑学番組、そして、健康番組だったが、もしかしたら今回のウイルス騒ぎによってはじめて健康番組を見る人もいるかもしれない。オヤクソクを知らないルーキー層にとって、SNSの情報とテレビの情報が同傾向にあるのだとしたら、それはこの上ない後押しであり、信頼できる情報になったに違いない。
ある意味、スーパーから納豆が消えたのは、予定調和だったのだろう。

納豆に限らず、件のウイルスが話題になってから様々な情報が飛び交うようになった。
マスクやトイレットペーパーは今も欠品が続き、フリマアプリでの転売規制も始まった。中には、石がウイルスを除去してくれるという眉唾モノの情報もあるのだから恐ろしい。ちなみに、このnote内でもウイルスにかからないためのという内容のスピリチュアルな記事を見かけた。

日々、新しい情報が飛び交う中で、ふと目についた文章があった。

「難しい説明ではなく、安心が欲しい」

正直、溜息をついてしまった。こういう人がデマに踊らされるのだろう。
こういったことを書くと、心無い人だとか、相手を誹謗中傷していると思われそうだが、まったくもってそのつもりはない。私とて感情はある。たとえば、これが芸術のような、感受性がものをいう分野に対してならば、溜息などつかなかっただろう。しかし、今は医学と科学の分野である。

感情があるからこそ、難しい説明が必要なのだ。

難しい説明、つまり公的機関などによる調査や検証データを蔑ろにして、近視眼的に安心を求めた結果が、納豆やトイレットペーパーがなくなってしまった原因だ。
人は感情をまるで性善説だけで作られた至高の宝石のように扱うが、感情とは、清濁併せ持つ酷く身勝手なものである。
目の前の情報が嘘であったとしても、感情が赴いてしまえば、人はそれを正当化しようと躍起になる。

そして、本当に恐ろしいのは、どんなに正しい情報であっても、感情が赴かなければ、人はその情報を「嘘」にしてしまうことだ。

コロナウイルスはもうしばらく広がりを見せるだろう。
近視眼的に安心を求めることで、納豆やトイレットペーパーのように店頭から消えるものは増えるかもしれないし、過剰な承認欲求を満たしたい自称○○な人たちによって、新たな危機が起こるかもしれない。
正しいデータによる対策が発見されたとしても、偏見や先入観という赴かない感情によって黙殺されてしまうかもしれない。
誰かが裏付けされた正しい情報だけを「これは安心な情報ですよ」と発信したとしても、その人物を信じる感情がなければ、誰もその情報を使おうとはしないだろう。

感情に支配され、近視眼的に安心を求めていたら、いつまでも「本当の安心」は得られない。
必要なのは、難しい説明と毛嫌いされている正しいデータと知識、それによる感情のコントロールだ。

これは戦争である。

私たちが、私たち自身の感情の暴走に振り回されないための、私たち自身による正論と安心の戦争だ。

<了>

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