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日本共産党委員長・志位和夫一族伝(最終回)~軍人一族の中から生まれた共産党トップ~父と伯父たち


【画像① 帝国軍人一家の出自を持つ日本共産党委員長・志位和夫氏。一族メンバーの歴史を辿ると、歴史上にも興味深いエピソードにぶつかる。】



「インテリジェンス・ウェポン」では、メルマガ時代に元共産党板橋区議団幹事長・党本部勤務員の松﨑いたる氏の手になる日本共産党委員長・志位和夫氏の家族史連載を行っていた。note移転になったこの度、「最終回」の稿が松﨑氏より提供された。


共産党トップらしからぬ、曾祖父の代からの軍人一族の出であること、一族の中に戦後の有名なソ連スパイ事件に関与した者があったことなど、志位家の意外な事実が明らかにされ、好評だった連載だが、この度は父の代の話である。父(故人)は、共産党の船橋市議会議員を務めた人だが、直接的に息子・和夫氏の将来に直接的な影響を与えたことは間違いない。


日本共産党が刊行する公式党史では明らかにされない事実を歴史的資料を紐解いて解明した『日本共産党・暗黒の百年』(飛鳥新社)の著者らしい、綿密な調査に基づく論考は興味深いものがある。もう落ち目の日本共産党であるが、来年1月は党大会が開催され、20数年も党トップの座にある志位和夫氏の去就が注目される。


ぜひ、今回の松﨑氏の論考をお読みになり、これから推移する日本共産党の行く末を考察される参考にしていただければ、と考える。尚、メルマガで連載されたものも近々、再編集してnoteでマガジンの形で販売することも検討しているので、ご期待を。



◆志位正人の6人の息子




【画像② 志位正人中将は、ロシア革命後のシベリア出兵で出征し、反革命コサック軍のセミョーノフ将軍の顧問にも就任した経歴を持つ。反共軍事干渉に従事したという点で孫の共産党委員長とは対照的である。】


陸軍中将・志位正人(1889~1945年、兵科=砲兵)には6人の息子があった。このうち、公の記録で名前が確認できるのは、長男・正二(まさじ)、五男・明義(あきよし)、六男・素之(つねゆき)と尚武である。尚武が三男なのか四男なのかは判明していないが、千葉県内で小学校の教員をしていたことが教育関係の雑誌への投稿で確認できる。残る一人については名前もわからない。


正人の跡を継ぎ陸軍将校になった長男・正二については、前回取り上げた(陸軍少佐、1954年のソ連スパイ事件=「ラストロボフ事件」に関与)。今回は五男・明義と六男・素之をとりあげてみたい。



◆志位明義―― 一人息子を共産党委員長に導く

 

のちに日本共産党委員長・志位和夫の父となる明義は1929(昭和4)年12月7日、東京・世田谷で生まれた。世田谷区で幼少期を過ごし、地元の若林小学校を卒業し、都立千歳中学校に進学するが、一年足らずで東京の親元を離れ、1943(昭和18)年、全寮制の陸軍熊本幼年学校(熊幼)に入校する。熊幼は父・正人が学んだ陸軍学校で、卒業後は陸軍士官の道を進むことが期待されていた。同じく軍人として父の期待を受けていた兄・正二が東京幼年学校だったの対し、明義が熊幼に進んだのは、当時すでに、東京は米軍の空襲を受け始めており、疎開の意味合いもあったのかもしれない。

熊幼在学中に終戦を迎え、軍の武装解除とともに軍付属の学校であった熊幼も解散となった。明義は石川県の輪島中学校に編入し、1946年3月に同校を卒業した。石川県にどんな縁があったのかはわからない。



【画像③ 陸軍熊本幼年学校跡地は、陸上自衛隊北熊本駐屯地となっている。ここにうつった門柱は別の場所から移設された熊幼時代のもの。】


<軍国少年から共産党員へ>

父・正人のような軍人になろうと熊幼での教練に耐えてきた明義にとって、軍や熊幼の解体は人生の転機となる大きな出来事であった。

明義は1948年3月に日本共産党に入党したが、その動機について「軍国少年だったころに信じこまされていたことが全然、事実と違っていた。『自分は神ではなく、人間だった』という天皇の人間宣言には特に失望させられた。自分の世界の見方が変わった」と語っていたという(「日本共産党書記局長・志位和夫さん【おやじを語る】」 産経新聞1999年11月8日付け)。

一方で熊幼時代のことを語ることはほとんどなかった。熊幼の同期生は戦後も定期的に同期会を開催するなど、強い結束をしめしていたが、明義が同期会に顔を出すことは一度もなかった。

2005年4月30日に明義が亡くなった際、軍関係者の会報に同期生たちは短い訃報を掲載している。

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