「“スルースキル” が人を殺す」時代


〔前略〕


 昨日書いたぶんの補足ですが、あれを全文お読みいただけた方々にも注意を促したいのは、私は何も「他人と揉めて甚大な心身的負担をもらうような事態は避けろ」なんて謂ったわけじゃないのね。逆です。脚色家と原作者とのバトル程度なら、いくらでも、思う存分やるべきなの。
 昨日の一件を考えるにおいて私の頭をずっと占拠してたのは、『バトル・オブ・エクソシスト』っていう『エクソシスト』(1973年)のメイキングドキュメンタリー本なんです。


〔中略〕


 以上まとめると、ついに「“スルースキル” が人を殺す」時代が来てしまったんだ、と思ってます私は。 Twitter なんかだとさ、自分の意見と真逆な人だとか、あるいは同類だと思ってたけど徐々に自分を不快にさせることを書き始めた人だとかをブロックしたり、ヤなことそっとミュートしたりするでしょ? その行為が人を殺すんです。ブロックやミュートみたいに “スルースキル” を駆使して今日もクールにweb上で社交してる人々は、間違いなく自分自身の防衛機制に従って行動してますよね。これ以上不快な思いをせずに済むようにって、適切な “TL構築” に血道を上げているでしょう。でもその過程で黙殺されるのは、防衛機制に従って動いている側と・その働きによって解離された側、これら双方が実は合同で生み出した爆弾の存在なんですよ。前段落を踏まえて書けば、脚本家やプロデューサー側は、原作者の意向という「問題」をブロックまたはミュートした結果、実は自分らの手(テレビ局側と原作者側の双方)で捏ね上げていた爆薬を、ブロックされミュートされた側(=原作者)にのみ渡して爆発させた、ということ。典型的なマクベス型罪責パターンですよ、相手が死んだあとで「自分はやってない、手を汚したわけじゃない」ってキレイなままの手を執拗に洗うとこまで含めてね。主観的には防衛機制に因るはずの解離によって、実は爆弾が生産されていて、その爆発で絶命するのは防衛機制の過剰駆動によって「問題」認定された側であり、決して認定した側ではない。これが「“スルースキル” が人を殺す」具体的な構造です。つまり、不快を感じる側と感じさせる側が、断絶線を跨ぐのではなく実は相互に結託していて、そこに所在する「問題」に向き合おうとした側ではなく解離を効かせまくって無感覚であろうとした側こそが決定的な加害者となる。ここで他責/自責の定義とその役割が逆転しているわけです。他人を「他責的」と呼びたがる側こそが世に在る問題を積極的に温存・育成させる構造については、 A Perfect Circle 『The Outsider』の歌詞を通して分析しましたね。


〔後略〕


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