先行と類似


 〔前略〕

 そのような作業に熱中する過程ではもちろん冷却水が必要となるわけで、前回にも書いたようなPixiv を介して伝達される現今の視覚的イメージの有様(最も不毛に去勢された「ユニセックス」の諸相)などは文字通り頭を冷やすにうってつけの役を果たしてくれる。相変わらず Pixiv の同傾向作品提示のアルゴリズムは優秀極まりなく、今日はこんなものが目に入った。
 私の小説『χορός』の少なくとも第2章までをお読みになった方には明瞭であろうが、『χορός』と前掲の作品との間には「女性2人の関係性が(ひとまず)主となっている」、「その登場人物は北九州(ちなみに「北九州」とは単に「九州北部」の地理的区分と「福岡県内の政令指定都市である北九州市」の両方の意味を曖昧化させたまま使われることがある。私の小説の場合は後者)出身であったりフォークリフト運転手であったりする」などの共通点が見出される。西暦2022年6月にこの作品をアップロードした作者ら(共同作業チーム?)は自作の英訳版も併せて出しており、公式アナウンスの文章からも「いかにも日本人が書いた英文くささ」が一切感じられないため、おそらく台湾、上海、韓国あたりの出身者で構成されていると思うのだがどうだろう。

 と、前段落の記述から既におわかりのように、私は前掲作の内容自体からは一切の感銘を受けていない。ああいった視覚媒体で作品を発表したがる同時代人の心的機制に専らの興味を抱いているのだ。何故と問われても、単純に作品として面白くないのだから仕方がない。理想化された同性ふたりの関係性を愛玩動物のように展示して作者も受け手も一緒になってうっとりするような痴態を、この手の人々はいつまで続けるつもりなのだろうか?
 いきなり批評めいた文体になるが、21世紀において「愛し合うふたり」の姿みたいなのを弄びたがる作品には、なぜか必ず「敗北主義」が抱き合わされている。作中で交わされている人物たちの「愛」が、いつのまにか(というか、最初から)外側の世界には一切干渉せず・そのように囲われることによってのみ辛うじて存在を許されているかのように無力化・あるいは非政治化される手続きが必ず含まれているのである。

 もちろんこの傾向を蔵しているのは、必ずしも同性間の関係を理想化した作品のみにとどまらない。例を出すが、幾花にいろという漫画家がおり、小説執筆時の私はこの作者の単行本『幾日』をたいへん熱心に読んでいた。が、私自身の作品が進行し続けるとともに、幾花にいろ作品の偏向または明らかな欠陥が意識されはじめざるを得なかったのだ。「この作者が描くモノには、肉体的交情、近代資本制的消費、労働そして生活などの要素が必ず含まれている。そしてそれらを介して描かれる人間の有様からは、個々人を囲繞する世界そのものを変革する契機が完全に剥奪されている」と。他ならぬ私の作品が「日常の過ぎ行き(の中に孕まれた創作行為)の結果として軽々と世界を変えてしまう女性たち」をテーマとしていた以上その質的差異は意識されて当然ではあったが、それにしても幾花にいろ作品が前提とする無力化・非政治化の徹底ぶりは凄まじい。さながら「わたしたちは愛し合っていて、同じ部屋で暮らしていて、セックスしたりいろんなものを飲んだり食べたりしていますけど、それでも外側の世界に対しては何をするつもりもないし、わたしたちも世界からは何もされていませんよ」とでも言わんばかりだ。この特徴は『幾日』のみならず、全年齢向けとして発表され直接の性交描写を含まない同性同棲モノ『あんじゅう』においても一貫している。共同生活における買物や食事やゴミ出しなどを「リアル」に描く作品のなかで、登場人物たちが外側の世界に対して働きかける可能性だけは徹底して刈り込まれているのだから凄まじい。

 翻って、私は思うのだ。この人々はいったい何を恐れているのだろうか? と。私は「凡庸な日々のなかで自らの作品に(執拗に)取り組み続けるだけで外側の世界は容易く変えられてしまう」という事実を知っていたため、その前提を一切疑うことなしに『χορός』を仕上げることができた。西暦2020年12月に書き上げられたこの小説は、(言うも野暮だし優れた作品には往々にしてありがちなことだが)2021年以降のあらゆる趨勢を予見していたかのような内容さえ呼び込んでしまっている。ポーランド出身でロシア在住のユダヤ人である老婆が「また戦争が起こるよ」と言う場面も、錯乱した自衛官が銃を乱射する場面も、あと安倍晋三の殺害も、すべて『χορός』の第3部で予め書かれていたことだ。そもそも私は双子座の生まれなので、自作の内容が(同時代のそれと比して)あまりにも早すぎることなど慣れっこではある。マイルス・デイヴィス(双子座)やプリンス(双子座)や菊地成孔氏(双子座)が各々の作品に対して胸懐していた「早すぎる」ことへの自覚など、身に沁みて解りすぎて辛いほどだ。たとえば私と同じ誕生日であるダニエル・ギルデンロウは、あの『Road Salt One』をリリースしたばかりの頃、 Euro-Rock Press のインタビューで「今後はこういう音のアルバムが増えてくると思うよ。未だにプログメタルなんかを追い求めてるような人たちには、 Fates Warning がお似合いだ」という意味のことを言っていたが、その翌年に同郷の Opeth が『Heritage』を発表し、 Steven Wilson もファットなプロダクションを脱ぎ捨てた『The Raven』を2013年に出している。そして2023年の現在となっては、未だに所謂プログメタルに義理立てした音楽をやっている手合いにかけてやれる言葉など「ご苦労さん」くらいしかない。 Dream Theater がグラミー賞最優秀メタル・パフォーマンスを取ったあの曲なんか典型だろう。つまりダニエル・ギルデンロウの言もまた「早すぎた」のであり、その先見が定着したあとは、既に変わったことを当たり前のように享受する「早くもなければ遅くもない」人々の厚顔無恥ぶりに溜息をつくか、あるいは「何も変わっていませんよ」とでも言いたげな顔をしながら絶えず近過去の理想化により解離の麻酔を打ち続けなければ現在を生き延びることすらできない人々の呑気な憔悴ぶりに苦笑するしかないわけだ。すべては歴史が証明するが、歴史に証明されている自覚がない人間だけが幸福なのである(←この言明を「いかにも反ヘーゲル主義者が陥りがちなヘーゲル的思考」と指弾したくなった者には反省を促したい。そのヘーゲル哲学自体が全然ダメだったことの証明可能性を含めた豊かさが歴史には本来的に蔵されている、ということまで視野に据えたうえで言っているのだから)。



〔後略〕



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