「法と禁止とナルシシズム」にまつわる、誰もが理解しているがゆえに目を背けたがる話

〔前略〕


「うわっイヤだ自分の声は絶対にこんなはずじゃない」という嫌悪感または挫折感の巨きさに潰されて歌をやめてしまう人はいくらでも居るでしょうけども、以前書いたようにこれも正調ナルシシズムの問題です。本当のナルシストってのは「自分で自分に惚れ込んでる人」ではない。「自分ではない者を自分として・自分を自分でない者として取り違えてしまってる人」が正しい意味でのナルシストなのね。なので自分の声の録音を聴いて「うわっ頭の中にあった声と違う」と嫌悪感または失望感を抱いてしまう人は言い訳不能のナルシストです。外部(録音装置)から通告される音声情報よりも自分の主観的な「声」のほうに惚れ込んじゃってる人、ってことだからね。ここでの録音装置が担っているのはもちろん、フロイト派精神分析で謂う「第三項」の役割ですよ。主体に限界を通告する・法と禁止を司る存在ですから。ここで法として置き換えられてるのは律動や音程などの音楽的情報で、それがうまくできてるかできてないかを「客観的」(←だいぶ取扱注意な観念ですよ、みんな軽々しく使いたがるけど)に通告されるわけですが、それら音楽的要素の外にある「声色」なんかが自分の思い通りでなかったと消沈する人がいたとしたら、だいぶ重篤なナルシシズムの患者だと言えるでしょう。律動や音程は訓練すれば直るけどね、声色自体はどうしようもないじゃんねえ(本当は声色自体も訓練次第でいくらでも変えられるけど)。こういう生まれ持ってしまった要素(ところで、ニーチェすらまともに読めてなさそうな人たちが Twitter 上で「贈与」という語を重たげに使ってるのを頻繁に見るようになりましたけど、ここまで書いたこともすべて贈与の問題系ですよ。ニーチェ哲学における贈与は民族[volk]が持っていた「価値を設定する力」と直結していて、個々の存在が生産されること自体もその所与なんだから。贈与は法の設定と禁止の通告を前提として持つので、神みたいに自己設定できる主体が人間であるという20世紀中盤以降の一番ダメな思潮を前提として「贈与」を語ってるような奴は、だいぶヤバい自己愛の徒だと思ったほうがいいです)のありさまを第三項=鏡に映されて・落ち込んで・その外傷記憶の余波として何もやらない人生を選択する人なんかもたくさんいるんでしょうねえ。もちろん、その第三項=鏡に映った姿はぜんぜん「自分の姿」なんかじゃないんですけどね。だって左右が逆じゃんねえ。さっき書いた「自分ではない者を自分として・自分を自分でない者として取り違えてしまってる人」ってのはこういうことですよ。カフカ『掟の門』のオチとも関係あります。そもそもトーラーとタルムード自体が「限界を通告する掟」なんだから。ちゃんと法学の勉強したユダヤ人をナメちゃいけませんよ。

 さっき「音楽の練習全般は、必然的に割礼的たらざるを得ません」って書いたけど、その意味も一周して解りやすくなったでしょう。ピエール・ルジャンドルが謂う「キリスト教規範空間」では、ユダヤまたはイスラーム的な心身に直接刻印される儀礼は「狂った解釈」と見做されるのね。なぜならそれは「外在化された・客観的な文書」じゃないから。加えて日本国では(乗越たかおさんが『ダンス・バイブル』で言及していたように)、中国文化の圧倒的な影響下に置かれながらも、宦官や纏足のように身体を変形させる文化だけは受け容れませんでしたよね。この「身体に直接刻印する文化の拒否」を備えていた時点から大日本帝國憲法制定までの流れ、一本線で結べるよ。そんな「外在化された・客観的な文書」でさえ信用できなくなった反動なのか、今の日本国では100年前のオーストリアみたいな「健康=筋肉信仰」が痛々しいほどヒステリックに定着してるということも、誰でも知ってますよね(もちろん男性だけの話じゃないですよ。図書館で働いてた頃にイヤというほど思い知らされたよ、「信用できるのは自分の身体だけ」という切実なマッチョイズムに女性も軽々と持ってかれてるって事実を。「尻トレ」みたいなヤバい本がどんどん入ってくるんだもの。男性の下品さを女性がそっくりそのまま模倣してしまう文化圏において、 toxic masculinity なんて付け焼き刃の表現で何か批判できたと思い込んでる輩がいるとしたら余程のバカですよ)。
 結局、法によって通告される限界をどこに持つかって問題なの。先に書いた「健康=筋肉信仰」の人たちは、自分の体躯を資本そのものとして見做してるばかりか(←人体=資本の意識が「20世紀のオーストリア性」と結託したら、言うまでもなくヤバいことになりますよね)、そこから発する自己拡充を止める手立てが(自分の肉体的寿命以外には)全く無いってのが痛々しさを数倍にしますね。 carpe diem と memento mori の両方が肉体的次元の切実さにおいて重ね合わされている文化って、かなりキてますよ。その「筋肉法」を自分自身で/または師への服従によって刻印しなきゃ生きていけない人々もかなりの数存在するんですから、そろそろ self-stigmatize なんて語も流行るようになるでしょうねえ(と思って検索したら、案の定21世紀以降の文献がいっぱいヒットしたけどさ)。


 
〔後略〕


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