墓上跳舞


『破瓜参り』は私にとって初のヒップホッププロジェクト SAYSING_BYOUING のアルバム『癲』に収録されている曲であり、シニード・オコナー(シンニードとかシネイドとかオコンナーとかの表記ゆれ問題はすべてどうでもよい。そもそもローマ字アルファベットを仮名で記述すること自体が間違いだ。ちなみに柳瀬尚紀氏の指摘によると、 O'Connell はオコンネルよりもオコンルのほうが実際の発音に近いのだとか)の楽曲『I am Stretched on your Grave』がサンプリングされている。もちろん無許可の音源使用であるからには、アルバム販売等による収益も得ていない(無料でのみ公開・頒布し、そこそこ好評で物理パッケージを刷り直しもしたが、もちろんその度に赤字額は増した)が、もしシニード死後の音源権利管理者などがこれを聴いて問題だと判断したなら、今からでも訴えていただきたいほどだ。既に決まっている私の新しい労働先は前科者や破産者には就けない職種なので、今からでも私が使用料を請求され破産することにでもなれば、たいへん劇的ではある。
 お読みのとおり、私は己のけいアナーキーな状態を自覚している。とてもシンプルに、Shuhada' Sadaqat が亡くなってしまったことが原因だ。正直なところ、私は今年(西暦基準)に入って届けられた数多くの訃報によっても一切心を動かされなかったが、つい2ヶ月前にケネス・アンガーが死んだと(それも、よりによってレフンへの当てつけを書くついでに検索した際に)知らされ、ダメ押しとばかりに今回の訃報が来た。

「そもそもムスリムであるあんたとケネス・アンガーとの間になんの関係があんのよ?」とすら問われかねないが、『破瓜参り』はそもそもアンガー著『ハリウッド・バビロン』の、とくに第2巻冒頭文に触発された内容なのだ。アンガーが映画人たちの無数の潰走記録によって編んだゴシップ神話体系は、「これが書かれること無しにはそもそも知り得るきっかけすら存在しえなかった」という伝達を成しうるテキストの業を、初めて私に知覚させた(同質のテキストにフーコー『汚辱にまみれた人々の生』がある)。その着想を下敷きに作られた楽曲『破瓜参り』は、名を為すことなく潰えた無数の人間たちの仕事を弔う歌、を当の無名人に他ならない私が担うことにより、まずは霊妙と言って差し支えない音と詞の品格を獲得したと思う。 SAYSING_BYOUING は(多神教徒時代の私が作詞していたがゆえに)無闇な汚い言葉遣いが乱用されてはいるが、それでもこの曲の内容に関しては(「厭離浄土 欣求穢土」の1行のみを除いて)訂正の必要を感じない(もちろん漢語で表されるところの「浄土」はイスラームの楽園とは異なるが)。そこまで端正な詞が書かれ得た要因といえばもちろん、この楽曲が作られていた時すでにシャハーダを遂げていたShuhada' Sadaqat の詩的霊性が、かろうじて私の筆業を洗い清めてくれていたからに他ならない。その後、私は先達たる彼女と同様に帰依し、さらに新規のヒップホッププロジェクト Parvāne をも開始した。 James Brown のドラムブレイクにアイリッシュなフィドルと自らの歌声を乗せた彼女の楽曲は、屈曲した時空をものともせず、すでに「国民国家に生まれ育ちながらも真実の教えに従い・変革のために音楽の力を使う者」としてのロールモデルを伝達してくれていたのだ。『破瓜参り』は多神教徒時代の私に思いがけず届けられた、「死と弔い」にまつわる理路の具体的精華であった。つまり、こういうことさ。ケネス・アンガーとシニード・オコナーを足せば、そのまま私になる。わかるかこの算数が?

〔後略〕



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