ソーシャルメディア上の小マクベス


〔前略〕


 “r” の字で始まる、トランスセクシュアルよりは異性装の傾向にあったタレントさんが、去年の7月に自殺しましたよね。皆さん憶えてらっしゃいますかね? 私にとっては忘れようもない出来事だったんですが。
 もちろんね、ソーシャルメディア(特にTwitter)上での誹謗中傷が原因と思しき自殺なんて、本当に理不尽なことに21世紀前半では度々起こっていますよ。しかしこの事実に私の目を開かせてくれたのは、菊地成孔さんが西暦2020年7月にとあるweb媒体で、やはり同じく自殺してしまった木村花さんが取り囲まれていた状況(リアリティショーとソーシャルメディア双方への露出、による心身の摩耗)について真摯極まりない見解を述べておられた、その文言によってなのよ。だから私はその3年後にあのタレントさんが自殺したと知ったとき思ったわけ、「また同質のことがまったく同じように起こってしまったんだ」って。
 で、 Twitter 上でこの類の件が持ち上がったときにさ、まるで持ち回りのように決まって誰かが慌てて書き出す典型があるよねえ。「いま Twitter 上でつらい気持ちになっている方へ。あなたのメンタルコンディションをすり減らす必要はありません。タイムラインを閉じて、好きな音楽を聴きながら好きなものでも食べて、自分の気持ちの安定を最優先に過ごしましょう」←みたいなやつが必ず1万リツイートくらいされるじゃない、他の奴らも「うん、いま必要なのはまさにこのような注意喚起だ」とでも言いたげな意識でさ。私、こういうソーシャルメディア上で定着しきった心性が大っ嫌いなのね。何故かなんて言うまでもないでしょ、とある人(々)が自殺するための直接の動機を与えてしまった Twitter という装置のなかで、自分もまた円滑に回る歯車としての役を担っておきながら、いざ問題が起こったときには「タイムラインを閉じて……」みたいな何の根本的解決にもならない窮余策を良識ヅラで持ち出すからだよ。こんな欺瞞があるか? あの人々をして自殺を選ばせしめたのは、過剰露出と過剰社交をさも必要なものであるかのように錯覚させる装置=ソーシャルメディアの効果で、逆に言えばその程度のことだろうよ。なら Twitter みたいな特に性質の悪い装置を端的に故障させれば、さらなる犠牲になったかもしれない人々は助けられるんだよ。
 なぜそうしない? 毎日毎日ツイートの投稿とお気に入り登録件数を増やし続けるような勤勉な蟻どもが1匹もいなくなれば、原理的に Twitter という蟻塚も消滅するだろ。なのにその装置の効果が人の命を奪ってしまう様を何度も見続けて、その度に「好きな音楽を聴きながら好きなものでも食べて自分の気持ちの安定を……」って結局は我が身可愛さ最優先の遁辞吐いてよ、それでも数日後には何事も無かったかのような顔で自分の「創作活動」の販路確保や「推し」萌えのヒステリーを享受するためにツイートしだすんだろ? 私はこういうソーシャルジャンキーどもの生態を見るたびに思うの、「こんなに醜い人間の姿があるだろうか」って。お前ら結局 Twitter なんかのせいで自殺しなきゃならなかった人々のことなんかどうでもいいんだろ? そんな人々と同じほどには重篤化しない自分自身の内面だけが大事で(わかるよ、人間の心性は幸福感だけだとむしろ不安になって、チクチクした微小な不快感も併せて摂らないとバランス取れないんだろ。「ずっと推しの尊さだけ享受していたかったのに……」なんて泣き言垂れ流す輩にも教えといてやる。お前がどうしたって「ずっと好きでいたかった物事に対する失望」に直面してしまう理由は、その作り手や芸能プロダクションが荒れてるからじゃない。単に Twitter みたいなもんが「幸福感と等量の不快感」を供給する役目を果たしていて、お前自身までもがその両極端な刺激に慣れ親しんでしまい、それら無しでは生きた心地さえしないほどに調教されてしまったからだ)、もうこれ以上同質の事件が起こらないようにしようなんて思いもしないんだろ。その理由さえもが明確だ、当のお前自身はひっきりなしに自分の「創作活動」の告知をしなきゃいけなくて、その広告を打つために Twitter が必要だと信じ込まされていて、結局は「今まで人を殺してきたしこれからも殺し続ける装置」こと Twitter をこれからも円滑に作動させるための歯車としての役割から逃れられないし、そもそも逃れるつもりさえないんだから。さながら終身雇用だよ、「創作活動」の広告にしろ「推し」萌えのヒステリーにしろ、お前が Twitter という名の主に抱いている信頼の篤さは。その逆にさ、私みたいなもんがお前らを組み込んでる装置の働きにどれほど憤ってるかわかるか? その危険性というよりはむしろ白痴性にだよ。2020年5月にも、2023年7月にも、そしてこの晩冬にも全く同じような機制で自殺を選んでしまった人がいた。そんな事件を次々と起こす装置が必要だなんて思ってるのか? それを停めるためにまず自分が歯車として動くのをやめようと決断するだけの理性と潔ささえ持ち合わせずにさ、「それでもやっぱりこの装置がもたらしてくれる恩恵のほうが大事だ」なんて本気で思ってんのかよ?

 これが何に似てるか? 簡単だよな、20世紀以降のあらゆる病んだ構造の温存を正当化してきた輩どもの心性と全く同じだ。シオニズムが国家崇拝以外の何物でもないと理解したならば、それを故障させるためにはまず自分が国家崇拝をやめなきゃならない。そのせいで自分(が属する文化圏)に多少の不利益が及ぶと解ってても、現在強いられてるのと同じような犠牲が繰り返されない可能性を思えば何でもないはずだろ。いま例を出した変革と比べりゃ、 Twitter をアクセス数または実効アカウント数不足で破産させるのなんか簡単にもほどがある実践だ(単に自分が何も書かなくなり、周りの人々もその意識を共有し、「もはや読み書きの必要が全く無くなった場」とする合意が形成されさえすればいい話だ)。なのに、何故それを実行に移す気にさえなれない輩どもが大量にいるか? もう既に書いたろ、本当は繋がる必要なんか一切無いはずの装置の効果にヤラれて、その内部における振る舞いの正当性をさながら終身雇用のように信じ込まされてるからだよ。

 で、私は絶対にそんな場には行かないと決めてるわけ。もう出来上がりつつある新しいデモ2曲も、いずれ演奏する観客の前や、いま私の仕事に直接の支援の意を表明してくださっているごく少数の人々に対してのみ捧げる。それは「この世界にはもっと多くの場がありうる」ことを証明するためにだ。作曲も作詞も含めて、私がこのタイミングで授かった新曲が、醜く浅ましく病んだ時世ごと掘り崩すほどの出来になったことをまず幸いに、また当然とも思う。自分が人殺しの装置に加担すらしてないと思い込みたい小マクベスどもは、せいぜいそのキレイなお手手だけ繰り返し洗ってろ。私は錆びた鍬でまた別の畑を耕す。
 それでは、また新しい収穫物を携えて再会すると誓おう。「不特定多数」が「何かの必然によって結び合わされた多数」に変わる場所、そこに立たなきゃ解らないことがあるんだと教えてやる。そして、その場所でしか救われない命があるんだということも。私の仕事は音楽だ。あんたのは何だ?



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