見出し画像

だから、書くことにした

はじめまして。


別に読まれなくても、と思っている

現代人、それも若者にしては珍しく、自分は長文の文章を書くことが多いし、それを楽しいと感じる。これは昔からなのだが、多分、単純に好きだからだし、別に何か深い理由があったわけでもないと思う。

この書くということが自分にとって大切な一部なのだなということには歳を重ねてから気付いた。「言語は最強の思考ツール」だというフレーズがある(Rekimoto 2016)。自分自身の思索の整理をするために、頭の中にあるものを言語化して表現することは、ただ漠然と何かを経験するよりも、より洗練された形で糧になる。

自分は、表現や伝達は必ずしも言語に拘って頼る必要は無いと思っている。身体のパフォーマンスやアートは優れた表現技法や伝達手段だと思う。しかし、母校の入学案内で述べたように、「人類は長い歴史のなかで言語を伝達手法として用い、今日まで発展してき」た(国際基督教大学 2019)。リテラシーの高まりと活字印刷技術の発展、そしてそれらの影響を通じて人類の歴史から学べることは、文章を読ませることが思考の伝達手法として優れており、社会への影響力を持つということだ。やはり伝達という点を考えた時、言語ほど優れた手段はないのだろう。けどそれは、共通のフォーマットだから相手が受け止めてくれるだろうという期待が他の伝達手段より大きいというだけではない。

高度な思考を緻密に言語化・文章化することは難しい。自らの思考を精緻に言語化する試みは、物事についてより深く思考することを可能にしてくれる。ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」というフレーズを残している(ウィトゲンシュタイン 2017)。やはり感覚として何かを留めるだけでなく、言語化できるかどうかは重要だ。ヴィトゲンシュタインは「思考しえぬことをわれわれは語ることもできない」とも述べている(同上)。言語化できている、ということはある意味では、自分自身が十分に思考できているということの証左でもあるのではないだろうか。言語化されたものは必然的にある程度質が高い思考ということになる。

別に読まれる必要は無い。けれど、文章を書く以上は、誰か他者に伝達し得る質のものでなければ、自らの思考のための十分な一助にならない。文章を書き、言語化することは、自分自身の人間性の陶冶にこれまで役立ってきた。だから、それをこれからも続けていきたいと思っている。

大事なのは自らの人間性の陶冶

自分はこれから学問の世界へ飛び込んでいく。国際関係学という学問に魅了されて、気が付いたらいくつか業績が挙がっていた。学問の世界ではただ漠然と探求をするのではなく、基本的には科学的な探求が重要視されている。

科学というものは世間でよく誤解されている。ゲアリー・キング、ロバート・コヘイン、シドニー・ヴァーバの3名は①推論が目的であること、②手続きが公開されていること、③結論が不確実であること、④中身が方法であることという4つの特徴を科学が備えるべき要素であるとしている(King et al 1994)。我々が科学から得られる真の恩恵は、知見そのものではなく追試可能性である。自らの考えや意見が必ずしも正確であるとは限らず、むしろ上記のようにそれらは推論であり不確実なものだ。重要なのは、その考えや意見に辿り着く上でどのような思考を辿ったのかという方法が公開されており、その思考が正確だったのか、あるいは用いた方法が適切だったのかを他者が追試できることなのである。そうした議論を通じて、人類全体としてより正確な理解に辿り着くことができる。そうしたインタラクションこそが科学という営みなのだ。

しかし、これは同時に科学そのものが絶対的なものではないことを示しているように個人的には思える。確かに、同じ材料と方法を用いれば、同様の結論に辿り着くはずである。しかし、なぜその材料と方法を用いるのかといった部分は、深堀りしていけば論理以上に感覚的な要素が大きな役割を果たしているのではないだろうか。思考が論理的であったとしても、その思考に至るまでの前段階の感覚的な部分は、その個々人の個性に左右されるはずである。そうした感覚的な部分は全てを丁寧に公開することはできないし、追試する上での限界になる。科学は重要だし、恩恵は大きい。しかし、万能ではないことは理解しておく必要があるように思う。学問とは、必ずしも科学だけの世界ではないのだ。

自分は2019年に一橋大学の国際・公共政策大学院に入学した。学長である蓼沼宏一のその年の入学式での式辞は名文であり、社会科学と向き合う上で示唆深いものだったと思っている。

それぞれの学問分野は、その理論体系によって課題解決のための思考の方法とフレームワークを形作っています。一つの専門分野を深く学び、知的鍛錬を続けていくと、習得した知識が自分の思考のフレームワークにまで昇華していきます。知識の蓄積と思索の繰り返しによって得られる論理的思考の方法とフレームワークは、やがて皆さんが実社会に出たときに直面する様々な道の問題に取り組むときにも、強い拠り所となることでしょう。
(蓼沼 2019)

学問とは決して、ただ知識を蓄えることではない。学問や科学は、思考のフレームワークまで昇華するという過程を経て人間性の陶冶にも貢献する。科学的手法は重要であり、ここでいうフレームワークの一つにはなるが、学問も人間性の陶冶もそれだけではない。感覚的なものもまた重要になる。感性のようなものは、我々が生きる上で重要な要素だ。

とはいえ、感性とは必ずしも論理に反するものではない。特にビジネスの世界において「画期的なイノベーションが起こる過程では、しばしば「論理と理性」を超越するような意思決定、つまり「非論理的」ではなく「超論理的」とも言えるような意思決定が行われている」という(山口 2018)。世界やそこでの現象は極めて複雑であり、その要素や変数の全てを把握することは難しく、恐らく不可能だろう。学術的な研究ではあくまでも、特に意味の大きいと思われる要素や変数に着目して思考しているに過ぎない。だから本当に全体像を見たいと思った時、「全体を直感的に捉える感性と、「真・善・美」が感じられる打ち手を内省的に創出する構想力や創造力」が必要になってくる(同上)。

そうした優れた感性を持つ人間だからこそできる解釈と紡ぐことができる言葉があるはずだ。深層視考、すなわち「複雑なものを複雑なまま考える」ことも高いレベルでできるようになるだろう(木村 2018)。感性を磨き、人間性を陶冶することは大切で、そのために言語化を試み、文章を書くことは役立つはずだ。

けれど、公共に対して真摯な姿勢は大事だとも思う

実は一時期、ファースト・キャリアとして真剣にキャリア官僚を考えていた。国家公務員総合職試験(旧I種試験)に18位で合格したり、夜遅くまで様々な政策議論を現役の官僚の方々とさせて頂いたりと、かなり現実的なキャリア・パスの一部として考えていた。

結果として、ファースト・キャリアを経ずに知的探求の道に踏み出すことになった。けれど社会貢献への想いは変わらない。職業や肩書に関係なく、社会への貢献という自分のキャリアの軸はずっとぶれていない。だからこそ、一つ頭をよぎったフレーズがあった。「知見をぜひみなさんと共有し、私たちの住む日本社会の未来像について、みんなで考えを深めていくヒントにしていければ」という、現役官僚が自らの著書を出版する上で記した姿勢である(橘 2018)。この現役官僚は、「「浮いていようがいまいが、みなさまにお伝えしたいなと思ったことを書けばよいのだ」と、自分の存念を磨こうという覚悟や純粋さ」(同上)を持つようになり、その上で「納税者・主権者のみなさまと直接分かち合いたい」(同上)と思ったのだという。自らの職業と、社会の中での立ち位置に悩みながらも、自らの生き様とプロフェッショナリズムに従った形で文を綴り、最終的に上梓するところまでそれらを貫いた姿勢に敬服したのを今でも覚えている。

今、自分は学問の世界に身を置いている。この世界は社会において、「象牙の塔」という表現で批判されることがある。「深い知識・論理の体系の蓄積を生み出す行為の象徴的表現」である象牙の塔だが、自分はこれ自体は大切だと思う(伊丹 2005)。閉鎖的・限定的だからこそ実現可能な濃密な環境で思索や研究に没頭することで得られる知見があるはずだ。しかし、そうして得られたものは開かれた議論の場に出され、社会に貢献する役割を担う必要はあるだろう。そう思うと、自分の思考を言語化したものを、それも折角公開して恥ずかしくない質のものを書くのであれば、開かれた議論に貢献するために用いてもよいのではないだろうか。

無知を晒すこと

正直に言って、世に解き放たれてしまうことはプレッシャーで、生半可な物は書けないという気持ちはある。例えば、"素人"が記す旅行記について白洲次郎は『文藝春秋』の1953年6月号でこう述べている:

よく考えて見ると、大体旅行の印象記なんて、吾々素人の書くものは自分のメモみたいなもので、他人様がよんで面白いなんていう様なしろものではあり得ないとも思う。この頃流行りの旅行記を時々読むこともあるが、ほんの短期間いて、英国がどうの米国がどうのと、よくも白々しく言えたものと思う。此処迄来ると本当の所、白々しくなんていう様な生易しいものではなくて、単に無智無能を暴露しているだけだともいえる[。]
(白洲 2017)

こうした考えには実は感情的には同意するところが多いし、愚かしくつまらないものを書くことは自分の本意ではない。旅行に限らず、何かしらの物事の印象や所感について記した文章は、もちろんどうそれを記すかにもよるとは思うが、基本的にはどんな内容でも白々しいものではないだろうか。しかし、例えばその経験の長さという尺度で言えば、「ほんの短期間」という部分は、人間どこまでいっても変わらないのではないだろうかとも思う(同上)。確かに旅行記で言えば、数日旅行をした人間は、数十年住んだ移民と比べて、生活の経験という点では何かしら劣っているという見方はできるのかもしれない。けれど、移住して数十年という人間の手記も、白々しいものは白々しいのではと思うし、現地で生まれ育った人のものでも同様なのではと思う。どのような分野においても結局、無知という点では、どこまで行っても人が無知であるということに変わりはないのではないだろうか。

もちろん、無知には程度がある。無知は無知でも、ある程度知見があるに越したことはない。当然、自分も無知な人間だ。けれど、その自分の無知さは、ニコラウス・クザーヌスが言うような「学識ある無知」でありたいと思っている。クザーヌスが言うには、「もろもろの物体の組成の精密さや既知なるものの未知なるものへの正確な適合は、人間の理性を超えている」のである(クザーヌス 1994)。「われわれは自分自身の無知を知ろうと望んで」(同上)おり、「このような状態に到達できたならば、われわれは学識ある無知に到達したのである」(同上)とクザーヌスは論じている。

最も探求心の旺盛な人間にとっても、自己自身に内在する無知そのものにおいて最も学識ある者になるということが、学識上最も完全だからである。自らを無知なる者として知ることが篤ければ篤いほど、人はいよいよ学識ある者となるであろう。
(同上)

自分には知らないことがまだまだある。単純に知らないものもあれば、同じ現象やモノに対して他人とは異なる知見を有するという点での無知もあると思う。無知を晒すことに抵抗はない。学識ある無知を目指して、自分自身が無知であることを確認することは、自分の成長に不可欠なように思う。ただ言語化するのではなく、開かれた議論の場に持ち出し、多様な意見に触れることができるならば、尚のこと成長に繋がるだろう。

だから、書くことにした。


参考文献

『国際基督教大学 入学案内2020』国際基督教大学、2019年。

伊丹敬之、「実学の象牙の塔」がHMBAのコンセプト、HMBA、2005年5月1日、[http://www.hmba.jp/index.php?pageid=kikou20050501]、2020年8月25日。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹、岩波書店、2017年。

木村悠貴『深層視考 Deep Visual Thinking 脳みそを使い切る!『囲んで・繋げて・考える』全く新しいiPad Proの使い方』インプレスR&D、2018年。

白洲次郎『プリンシプルのない日本』新潮社、2017年。

橘宏樹『現役官僚の滞英日記』PLANETS、2018年。

蓼沼宏一、平成31年度 学部入学式 式辞、一橋大学、2019年4月7日、[https://www.hit-u.ac.jp/guide/message/190407.html]、2020年8月25日。

山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』光文社、2018年。

Jun Rekimoto、研究法(Claimとは)、slideshare、2016年6月8日、[https://www.slideshare.net/rekimoto/claim-62836813?fbclid=IwAR1A45kdfCVaacSs1dHDK2hld_u4CE88yEXf0F0bi2MGd1px8PcGOnxRlg8]、2020年8月24日。

King, Gary, Robert O. Keohane, and Sidney Verba. Designing Social Inquiry: Scientific Inference in Qualitative Research. Princeton: Princeton University Press, 1994.




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?