見出し画像

東京オリンピックを巡る醜い政争に蹂躙されたオリンピズム:中高の後輩がオリンピックのメダリストになった国際関係学研究者の夏

すごい後輩がいたものだと思う。
ダサい先輩で構わない。面識は一切ない。でも、少しばかり名前や噂を聞いていた一個下の後輩がオリンピックでメダリストになるなんて、嬉しいと思う。もう一度言うが、面識は一切ない。これももう一度言うが、ダサい先輩で構わない。
けれど、何よりライブで競技を見て感動した。それがすべてだと思う。


すごい後輩がいたものだ

愛知県名古屋市にある東海中学校・高等学校。在学中、決して交友関係は広くなかったし、そもそも周りの人間に大して興味がなかったような気もする。こんなのが元生徒会長で申し訳ない。

そんな自分でも、薄っすらとだが、名前と噂は聞いていた。武藤弘樹。一学年下のアーチェリー部で、どうやら高校生とかの枠を超えた実力者らしい。
自分が大学一年生になった2016年、そんな彼はリオ・デ・ジャネイロ・オリンピックの日本代表候補の一人だと話が回ってきた。やはり東海とは面白い学校だと思った。本当にすごい後輩がいたものだと思う。

その5年後、その後輩はアーチェリーの日本代表として東京オリンピックに出場。男子団体の部で見事3位となり、日本に同種目初めてのメダルをもたらした。

オランダとの3位決定戦。オランダ代表チームは台湾と準決勝を戦ったチームとは思えないほどのクオリティを見せつけた。高得点を連発するオランダ。
爆発的な得点力という意味では、日本には不安があるのかなと観戦していて思った。しかし、一歩引いて相手の立場から考えてみると、決して大崩れしない、勝つにはミスなく高得点を叩き出すしかない日本はやりづらい相手だったはずだ。ミスの許されない、高得点を取らなければならないという焦りとプレッシャーはミスを誘発する。
最後のシュート・オフ。オランダの最後の矢が放たれ、最後の矢を残す日本とは10点差。日本は最高得点である10点を出しても同点で、勝つには10点を出した上で相手の矢よりもより中心近くを射抜かなければならない。

数センチ、いや、数ミリの争いかもしれない。どんなプレッシャーなのだろう。そして最後を託されたのは同じ学び舎から巣立っていった面識のない後輩だった。いかにも東海にいそうなメガネ男子。柔和そうで生真面目そうで、どこかパッションとは無縁そうな。東海生のズルいところだと思うけれど、そんな奴らも、意外と胸に熱いものを秘めていたりする。

武藤の放った矢は、ほぼど真ん中を貫いた。誰にでも日本が銅メダルをもぎ取ったことが明らかなほど中心近くだった。
自室でテレビを見ていた自分は、思わず椅子を蹴飛ばして立ち上がった。身体が震えるのが分かる。あまりにもわかりやすいぐらい、感動していた。
クールそのもののような、パッションとは一見無縁そうな武藤も画面の中で吠えていた。

どんなプレッシャーと戦っていたのだろう。一つ年下の後輩は。画面の中で喜びを爆発させる偉大なオリンピアンは。一体誰がその重圧を、彼が噛みしめる歓喜を理解できるだろう。きっとそれは彼だけのもの。彼が得たかけがえのない経験、貴重な財産なのだと思う。


荒れ果てたオリンピック

2019年末に初めて感染者が確認され、2020年には世界中に混乱をもたらしたCOVID-19パンデミック。2020年夏に開催が予定されていた東京オリンピックに影響がないはずもなく、1年の延期が決定された。しかしパンデミック関係なく、東京オリンピックを巡っては様々な議論や政争が巻き起こっていた。

2020年のオリンピック開催地が東京に決定したのは2013年のことだった。2011年3月11日の東日本大震災から2年、未だ震災の爪痕は色濃い状況下、招致のためのプレゼンテーションで当時の安倍晋三 総理大臣は「原発事故後の状況について「アンダー・コントロール」(制御されている)だと保証する、と発言」した(工藤 2021)。これは決して実情を反映していないだろうという批判が噴出したが、結果的にこのプレゼンも決め手の一つとして東京が2020年オリンピックの開催を勝ち取ったのだった。

他にも今日まで数多くの問題が起き続けた。あまりにも多いので、J-CASTニュースの記事に詳細とリストの提示は譲りたいが、決してパンデミックや開催直前の問題だけではなかったのである。

オリンピックは、単なるスポーツの大会ではない。ただ競技をすればよいのではないし、とにかく開催すればよいのでもない。オリンピックは「オリンピズム(Olympism)」というフィロソフィーの上に成り立ち、そのフィロソフィーを体現するものなのである。そのフィロソフィーについて、オリンピック憲章には以下のように記されている:

Olympism is a philosophy of life, exalting and combining in a balanced whole the qualities of body, will and mind. Blending sport with culture and education, Olympism seeks to create a way of life based on the joy of effort, the educational value of good example, social responsiblity and respect for universal fundamental ethical principles.

オリンピズムとは、人類の生き方や文明についてのフィロソフィーなのであり、その目的は、「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和の発展にスポーツを役立てること(to place sport at the service of the harmonious development of humankind, with a view to promoting a peaceful society concerned with the preservation of human dignity)」とされている(公益財団法人 日本オリンピック委員会(JOC) 2020)。

さて、今日の日本において、東京オリンピックを取り巻く状況において、オリンピズムはその意味合いを発揮できているだろうか。人類は今、調和的に発展しようとしているだろうか。社会は平和だろうか。人間の尊厳は尊重されているだろうか。自分にはオリンピックを巡って、オリンピックを武器として政争が巻き起こり、対立が深まっているようにしか見えない。
オリンピズムを体現するものがオリンピックなわけだが、じゃあ2021年に開催されている東京オリンピックが果たしてオリンピズムを体現できているかといえば、怪しくはないだろうか。であるならば、(執筆時点ではまだ開催期間中であるが)東京オリンピックは、少なくとも十分にオリンピックの根底にある目的とフィロソフィーを体現できていないという点において、失敗だと言わざるを得ないのではないだろうか。

だとしたら、失敗の原因は何だろうか。国内オリンピック委員会(National Olympic Committee; NOC)、つまり日本で言えば日本オリンピック委員会(Japanese Olympic Committee; JOC)だろうか。日本政府だろうか。東京都だろうか。国際オリンピック委員会(International Olympic Committee; IOC)だろうか。

自分は決してこの問題に明るいわけではないのでまず感覚的に入るが、運営側に責任がないわけないだろうとは思う。例えばオリンピック憲章の4章には:

The NOCs must preserve their autonomy and resist all pressures of any kind, including but not limited to political, legal, religious or economic pressures which may prevent them from complying with the Olympic Charter.

とある。JOCはこれについて良い仕事ができているだろうか。世の中は賛成であれ反対であれ、オリンピズムに基づかない汚い政争であふれていたけれども。

国際安全保障学会の定例研究会で学会報告した内容とも関連するが、もちろん、直近の公衆衛生上の懸念は大きく、安全保障の問題としても扱われるほどの脅威となっている。開催の判断や手法に慎重さを求める議論が出てくるのは当然だろう。しかし、そうした冷静な視点に限らず、感情的なオリンピック開催の否定もある。ここで一つ気を付けなければならないことがある。オリンピック憲章には:

The practice of sport is a human right. Every individual must have the possibility of practising sport, without discrimination of any kind and in the Olympic spirit, which requires mutual understanding with a spirit of friendship, solidarity and fair play.

とある。アスリート、オリンピアンたちにも当然人権があり、その権利は当然尊重されなければならない。こうしたことを踏まえた上で、それでも、と必要十分で合理的な理由を提示して中止を求めた人はどれだけいるだろうか。

開催する側も良くなかった。政府や自治体の対応も良くなかった。しかしさらに踏み込んで言えば、メディアや市民社会も良くなかった。残念ながら、良い賛同も良い批判もあまり見当たらない。見渡す限り、どこにおいても政争の道具になっている。東京オリンピックは、下手すればオリンピズムやオリンピックそれ自体の敗北なのかもしれない。であるならば、本当に残念だ、としか言いようがない。


自ら首を絞める人類社会

我々はなぜスポーツを楽しめるのだろう。身体を動かすこと自体が楽しい。少しでもうまくなろうと内省と努力を通じた改善は達成感をもたらしてくれる。スポーツは活力をくれる。

我々はなぜスポーツを楽しめるのだろう。そのスポーツを突き詰めたトップ・アスリートたちは我々を魅了してくれる。なぜそんなことができるのか、ということをやってのける。我々は感動するだろうし、ある種の畏怖すら覚える。

こうしてスポーツから得られるものは、我々に文化的な豊かさをもたらしてくれる。我々の日常生活に彩りは加えられるはずだ。
どうして日常生活に特別な彩りを求めるのだろう。ちょっとした刺激や楽しみなら、日々の何気ない生活の中にも転がっている。
我々は既に物質的に豊かで、高度に発展した文明を生きている。もちろん国や環境、社会によるということは大前提だが、地球は、生きることだけ、労働だけ、あるいは闘争や戦闘だけに集中しなければならない時代からは脱却してきている。その日の食料を得ることだけを常に考えなければならないわけではない社会だからこそ、我々の生活には余暇が生まれている。我々の生き方に多様性が生まれている。
プレーヤーとしてであれ、オーディエンスとしてであれ、スポーツを楽しむというのは人類が文明を発展させる中で得た権利のはずなのだ。我々にはスポーツを楽しむ選択があり、その選択は尊重されるべきはずだった。そしてそのスポーツを通じて、我々はより豊かな社会を築く可能性を見出していた。だからこそのオリンピズムであるはずなのに。
今、そんな豊かさを人々は忘れようとしているのだろうか。あるいは豊かになったからこそ、スポーツが使い捨てされようとしているのだろうか。

今の日本の状況を見て、残念に思う。書いていてもやはり、こんな思いが頭をもたげてしまう。しかし、そんなものを吹き飛ばしてくれたのが後輩の大活躍だった。


オリンピックに向き合う

元々、世界に挑む後輩の存在を知るまで、東京オリンピックには関心を持てなかった。オリンピックの存在を否定するのではない。極上のエンターテインメントであることに疑いはない。ただ、ちょっと汚いものを見るような気がして嫌だったのである。

ご存じないと思うが、自分は博士後期課程に在学している研究者で、国際関係学を専門にしている。国際政治学とも呼称される学問分野だが、自分は極力、頑なに「国際関係学」という呼称を使うようにしている。理由は単純明快、「政治」が嫌いだからだ。

政治とは様々な解釈のある概念である。可能な限り広く意味を切り取れば人間関係や社会の中での集団的な意思決定であり、我々の日常的な行動の多くは政治である。狭く、そして一般的な意味合いに近づければ、政治家やその取り巻きによる権力を巡る様々な営みとなってくるだろうか。
もちろん嫌いだというのは前者のことではなく、後者のことである。特により表層的な醜悪な権力闘争は、関わるつもりが毛頭もなければ、できれば見たくもないと思っている。自分でも、本当によく国際関係学の研究が出来ているものだと思うけれど、事実なので仕方がない。

ニュースに目をやれば、特に最近はオリンピックの問題ばかりであり、社会全体で考えなければならない重要な問題があったことも間違いないが、醜い殴り合いが主だったように思う。そして、自然とオリンピックそれ自体から目を背けていった。
とはいえ、元々オリンピックを欠かさず見るタイプの人間というわけではない。多くの人がそうだと思うが、関心のある試合があれば観るし、そうでないものは観ない。なぜなら、他にも自分には趣味もやるべきこともあり、人生はとっくに充実しているから、となるのだが。
なので、目を背けたからといって、何か予定変更があったかと言われると、そうでもないかも、とは思う。様々なゴタゴタがなかったとしても、開会式も見る予定は自分の中には元々なかったように思う。それでも、やはり意識的に避けようと思っていたし、できればオリンピックの話もしたくないと思っていた。

後輩が東京オリンピックに出ると知った時、やはりとても誇らしく思ったのだ。何よりも想像以上に身近にオリンピアンがいたことには驚きだった。
色々調べてみると、やはりパンデミックに苦労してきたことが分かる。

元々、「特別な才能があったわけではなく、努力を積み重ね、実力を身につけた」(中京テレビ 2021)。彼は東海でアーチャーとしても人としてもそうして成長していったのだろう。

去年1月、東京オリンピック最終予選を控えていた武藤選手。しかし、コロナで1年の延期が決定。さらに、拠点としていた東京の練習場も閉鎖し、愛知の実家に戻ることに。
それでも、トレーニングは欠かさず行いました。
「実家の和室を改造して、練習しています。2~3メートルの距離しかないけど、フォームのチェックや修正をして練習しています」(武藤選手)
家族の許しを得て、実家の押し入れを改造。試合での的との距離を考慮し、実家では、的のサイズを5センチ程度にして練習を続けました。

誰もが影響を受けたCOVID-19パンデミック。自分も帰国を余儀なくされ、心が折れそうになる中やれることを積み重ね、学会報告や英語の査読付き論文などの結果を出した。スケールも分野も違うが、どこかシンパシーを感じる部分があったことは否定できない。ちょっとダサいけれど、それは認めなければならない。

人は何かに感動を覚える時、目の前の現象それ自体に感動を覚えるかもしれないし、ストーリーも含めて感動を覚えるのかもしれない。自分は武藤のあの一射に、彼のストーリーも含めて震えるほどの感動を覚えた。

これがスポーツだ。そう思う。
自分事で恐縮だが、一つ思い出したことがある。
まだアメリカで暮らしていた頃、当時の地元のサッカー・チームでエースのような役割をもらっていた時期があった。自分はただプレーをすることが好きで、何よりも点を決めることが好きだった。何より、ボールのやり取りは言語や文化の壁を超えるコミュニケーションだった。まだ英会話が苦手だった時期から現地に馴染めたのは、やはりサッカーのおかげだったのかもしれない。苦しい場面でゴールを決めて、プレーでチームを引っ張る。仲間を盛り上げることが出来るプレーがあることを、自分はサッカーを楽しむ中で学んできた。そんな数多くの経験の中でも、一つ特別な経験がある。
当時の地元の強豪チームに移籍して、そのチームでプレーしていた当時のこと、そのチームの仲間の弟が毎試合見に来てくれていた。彼は少し自閉症気味で大変な思いをしていたこともあったようだが、毎試合、自分のプレーを楽しみだと言い、いつも応援してくれていた。大きな声で応援してくれて、試合が終わった後に頼まれて一緒に写真を撮ったことも一度や二度ではなかった。
残酷なことだが、障がい者がいじめや嘲笑の対象となる日本の学校とは異なり、アメリカの学校(少なくとも自分が卒業した小学校と在籍していた中学校)では、恵まれない人にリスペクトを払い、自分のできる範囲でサポートをすることの責任の重さと大切さを学ぶ機会が多かった。自分にできることは決して多くない。自分は大したアスリートでもない。けれど、自分には彼の前で懸命にプレーすることはできた。
偽善と言われるかもしれない。自己満足だったのかもしれない。けれど、自分にとっては大切な経験となり、自分のサッカーのキャリアに充実を感じることができた日々だった。

スケールが違う、ちょっとした話でしかない。けれど大したアスリートではなかった自分にとってもこうしたエピソードはあるのだ。他の人にも似たような話はあるだろうし、もっと大きな大会などで活躍した人なら大きなスケールの話もあるかもしれない。

スポーツは間違いなく人々の生活と社会を豊かにする力を持っているはずなのだ。しかしそれはある程度の豊かさがあってこそなのかもしれないし、そこからより豊かになると忘れがちになるのかもしれない。
けれど、圧巻のプレーや震えるような生き様は、必ず我々にスポーツの価値を思い出させてくれる。

本当にすごい後輩がいたものだと思う。オリンピックという場で、あれだけのパフォーマンスをするのだから。
楽しかったし、心からのリスペクトしかない。そして感謝しかない。醜い政争という表面への嫌悪感を理由に避けていたオリンピックを観る機会をくれて、勇気をもらったのだから。


オリンピズムを体現した偉大な後輩

東海高校に在籍していた時、生徒会長と文化祭の実行委員長をやっていたことがある。その文化祭で重要なテーマとして掲げたものが「個性」だった。とても恥ずかしくなる。「個性」をテーマに掲げて生徒会活動をしていたくせに、一つ下の学年にあんなに強烈な個性が眠っていたことを全く知らなかったのだから。

また一つ、自分の東海時代に後悔が生まれた。

まあでも、いいじゃないか、と思う。昔の自分の愚かさの再確認だけでなく、あの一射からは一歩を踏み出すことと挑戦することの大切さを学び、勇気をもらった。これは本当に大きなことだと思っている。

そもそもこのネタで書こうと決断できたこと自体が大きなことであることは最後に記しておきたい。バズることもないだろうと思ってはいつつも、何かの間違いで多くの人の目に止まることもあるかもしれない。それならば、テーマがテーマなので面倒ごとにも巻き込まれるだろう。それでも、これは自分の中で文章にしなければと思った。

そんな矮小な一歩だけでなく、博士課程の道を歩んでいく上での勇気をもらったことが何よりも大きい。
研究者は孤独な職業だし、残念ながら今は稼げていないので職業ともいえない。それでも自分が選択したこの生き方を誇りに思っているし、迷いつつも日々楽しくコツコツと歩んでいる。自信を持って一歩踏み出してみよう。改めてそれが再確認できた。

オリンピズムとは肉体と精神、意志、文化、教育、それらすべてに関わる人類の生き方についてのフィロソフィーである。今回の東京オリンピックでは、表面的にはこれが欠如している。政治も社会も経済も市民も、そのすべてが丁寧にオリンピズムを破壊していった。
だが、アスリートたちは、オリンピアンたちはオリンピズムを体現していたのだと気づくことが出来た。それを気付かせてくれたのは、まさしくオリンピズムを体現する一人の後輩だった。

オリンピズムはまだ生きている。スポーツには価値がある。2021年、自粛生活を送る中で得られた貴重な学びで、大切な思い出なのだと思う。

「ありがとうございました」。
届くとは思わないし、同窓会とかが嫌いな質なので会うこともなさそうだから直接言う機会もなさそうだけれど、この感謝の気持ちを捧げなければと思ったから今回筆を執り、そして今置こうとしているのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?