10、エピローグ:演じるものの本性は永遠に存在しない
この記録も終わりに近づいた。
もう、演劇部員モブも、自分がその作者であることを告白していい時であろう。
この作品には、もちろん、現実と違うところ、大きく違うところが含まれる。
どの部分がモブの創作で、どの部分が真実かは読者の判断に委ねるしかないが、
はっきりと言えることは、その物語の出演者でもあるモブが、
同時にその物語をまったく公平に語ることなどできない、ということだ。
私は物語を語る。
だが、その私は仮面をつけている。
物語は、仮面を通してみた世界だ。
仮面を外した人間が、では世界などというものを見ることができるだろうか?
なるほど、かつてこの地上には、真実を目の当たりにした人間もいただろう。
だが、彼らは何かを書き残したか?
真実や世界などというものと直面した人間は、もはや何も書き残さないだろう。
1、真実や世界が言葉に表せないことを知っているから。
2、真実や世界を言葉で表すことの欺瞞を知っているから。
3、何かを書き残す恵みを与えられた人間には、真実と直面するチャンスがないから。
演じることは、嘘だという。
ということは、演技の背後には本性が存在するということだ。
だが私はこう思う。
演技の後ろに本性が存在する、という物語こそ、嘘なのだ。
演じるものの本性などというものは、永遠に存在しない。
言葉が発せられるためには、すでに完成された意味が必要だが、
人間は永遠に未完成だ。
未完成の音楽の最後の小節にあるのは、未来のイメージだけだ。
あるいはその未来のイメージだけが、我々にとって真実と呼べるものなのかもしれない。
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