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「生きる」は止まらない

換気扇がカタカタする音と生温かい日差しに包まれながら、ぼんやりする時間が多かった。布団は体温でぬるくなり、髪もすこし脂ぎっている。

ベットの上でYouTubeのゲーム実況を見るのをやめ、右手を訝しげに眺めながら「なんだかんだ生きるって続くなぁ」とぼんやり考えた。
日差しに照らされたほこりをただ眺めている。このまま亡くなれば黒く変色し、即身仏のようになっていくだろう。
下記のnoteでも触れているが、たくさんのご遺体を見てきたので、「死」は近いところにいる心持ちだ。

頼んでないのに喉は渇いてお腹も減る。トイレに行きたくなったり眠気が来たり。タイムラプスで撮った動画のように、日は昇りまた落ちる。そしてあっという間に時間が溶ける。価値も生み出してない。しばらく働いていない。

ただ生きている。

ただ、生きていけると思った。

何かをしていなければ価値もない、彼女がいなければ男として、稼がなければ、そんな感じで生きていた。何かに追い立てられて生きていたようだ。

相変わらずTwitterをずっと見て、タイムラインをシュッポッっと更新する日々ではあるものの、すごい人を見て「それに比べて俺は」と卑下しなくなってきた。どこか自分の延長線上に彼らがいる感覚が今はない。

特に何もしなくても別に生きてるし、生活がおかしくなるわけでもあるまい。強くなくてもいい。「坦々麺美味い」で充分幸せだ。足りない足りないだらけだった生活も落ち着き、満たされていると感じる基準が下がった気がする。

「病気になってよかった」そんな風には思わない。ならない方が良いに決まっている。病気は予防に限る。

「神様は乗り越えられない試練は与えない」

んなわけねぇだろ。

人間は弱く繊細な生き物だと思う。だからいろいろ壊れるのだ。全てに優しくてもいいけれど自分で自分の身を守らなければ、自然淘汰の波に乗る。
順風満帆な人生をどこかで自分が望んでいたのは確かだが、少し遠いところに来てしまった。

自分がやれることをやるしかない。

実体験としてそうおもった。

これから寝たきりになるかもしれない。四肢のどれかがぶっ飛ぶかもしれない。どんな生活を送るかはわからない。死んだように生きていてたとしても、死んではいない。悲観することはない。生きている、明日がある。毎日同じ日々なわけがない。
これから最高に楽しいこと、血潮たぎる出来事もあるだろう。それだけの希望で充分だ。

ブラックアウトするその日まで、どうせなら楽しくやりたいね。

「生きる」は止まらない。

密度濃く生きてやるわい。



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