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「コーヒー飲めません」が言えなくて

就職活動をしていたころ、採用担当の方が飲み物を出してくださることが多々あった。
それは緑茶だったりコーヒーだったり、ホットだったりアイスだったりさまざまで。
どれがいいか訊いてくれる会社もあれば、すっと自然に出してくれる会社もあった。

そして私は、コーヒーが飲めない。
大学時代、カフェでアルバイトをしていたくせに、コーヒーが飲めない。
※余談だけれど、コーヒーの匂いは大好きだ。コーヒー豆の袋を開けた瞬間ふわりと香るあの匂いは、カフェでアルバイトをしてよかったことリストTOP3に間違いなく入るだろう。

選択の余地もなくコーヒーを出された場合は、ありったけの砂糖やミルクをぶち込んで、あるいは呼吸を止めて、喉に流し込む。

「コーヒーと緑茶、どっちがいい?」と訊かれた場合は、コーヒー以外の選択肢をとる。ごく自然なことだ。

では、次のように訊かれた場合はどうだろう。
「〇〇さん、コーヒー飲める?」と。

その質問には私は必ずこう答えていた。
「はい、大丈夫です」
そして何度も同じ失敗を繰り返して後悔するのだ。
コーヒーの苦みと、自分の情けなさに対する苦い感情に耐えて、その黒い液体を飲み干す。

せっかく出してくれたものを残すことへの申し訳なさと、「もしかしてコーヒー苦手だったのかな」と気を遣わせてしまうかもしれない恐怖で、飲み干す以外の選択肢も選べないのだった。

「飲めません」と言える自分になりたくて

コーヒーなら、我慢して飲み干せばいい。
そのあとに、コンビニでお口直しのチョコレートでも買えばいい。

でも、これはコーヒーだけの問題じゃない。
仕事でも恋愛でも友人関係でも、「大丈夫?」「お願いできそう?」と訊かれれば、よっぽどのことがないかぎり、脊髄反射で「大丈夫です」と答えてしまうのだから。

そしてこれは、私だけの問題でもない。
そのことに最近ようやっと気がついた。

色々なものを脊髄反射で抱えこみ、大丈夫ですと言いながら限界いっぱいで走り続ける。
今は、それでいいだろう。
けれど、ずっとこのままではいけないと思うのだ。

まず第一に、短距離の全力疾走でフルマラソンは走れないという当たり前すぎる現実があり。

第二に、自分が限界いっぱいいっぱいフルスロットルで駆け抜けることは、ある意味では強みであるけれども、そんな走り方をしている限り「周り」や「チーム」は見渡せないという気づきがあった。

だいぶ遠回りをした感はあるけれど、やっと気がつくことができた。
もちろん、気がついたとて、すぐに変わるものでもないのだけれど。

だからまずは、「コーヒー飲める」くらいの粒感から、「飲めません」ってちゃんと言えるようになりたいんだ。

それと同時に、私が誰かに同じことを訊くときは、「私と同じ、飲めませんと言えない人種かもしれない」という配慮のもと、ボールを投げたい。

コーヒーは、まだ飲めないままでいい。

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