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"夜好性"という名が嫌いだ。-ヨルシカ、ずとまよ、YOASOBIの3つと


この前ヨルシカが紹介されると聞いてみたテレビで、YOASOBI、ずっと真夜中でいいのに、ヨルシカのファンがまとめて「夜好性」として紹介されていた。
少し前から、上記三つのアーティストの名前すべてに「夜」が入っていること、そしてこの三つが成り立ちや雰囲気の面でとても似ていることからファンをまとめて夜好性と呼ぼうと言う人が現れた。わたしはtwitterで初めて夜好性という名を目にしたときから、そのネーミングセンスには脱帽だった。

まさに言い得て妙。それらを好み、それらに寄り添われる二つの意味を兼ねている。


窮屈な昼の現代社会から抜け出して解放的に己を叫ぶ夜が、そういう音楽が若者に好まれるのはわかる。かくいう私も紛れもない若者で、紛れもなくそのような歌詞たちに助けを求め、自己を見出し助けを乞うている。情緒的な歌詞は、私たちを代弁してくれる。私たちが選んだ音楽は、私たちと同じ生き方をしてくれる。


ただ、個性を持つべきそれらがまとめられている名称はどうしても好きになれない。

「彼らは厭世的な私たちに寄り添って、ずっと同じように生きづらくなっていてくれる」というイメージは人を経てきっとただの枠組みになっていく。それは期待として映り、私たちの期待は、時に人を傷つける。
出処だけで、ましてやアーティスト名だけで、名称の知名度の向上によって本来ファンだけを括っていた呼び名がいつの間にかアーティストまで縛ってしまうのは余りに勿体ない。
いくら音楽が生き苦しい私たちの傍にいてくれるからといって、これからの音楽にもそれを求めてはいけない。仲間としての名称を超えて、アーティストまで縛ってはいけない。

ヨルシカはヨルシカで、YOASOBIはYOASOBIで、ずとまよはずとまよだ。互いの良さを潰しあって似ることを気づかないうちに強要してしまうことだけは避けたい。

この呼び名が好きな人はそれを自称すればいいし、嫌いな人は自称しなければいいだけの話だ、と言われればそれまでだ。私もこんな文章を書いておきながら、夜好性の方々を批判するつもりはない。三つとも好きになる気持ちはとてもわかるし、悔しくなるほどやたら優れたネーミングセンスだし。



私たちの愛がただの愛として完結できるよう、ファンとしてのありかたを考えたい。




----夜好性の方々へ----

この記事を読んで不快な気持ちになる方がいるのは重々承知しております。嫌な気持ちにさせてしまったら本当にごめんなさい。

この記事で夜好性を自称する方々へ批判をするつもりはありません。

テレビやニュースなどのメディアで紹介されることで私が応援しているアーティストに変な期待を押し付けることになるのは嫌だなあと思い書いた次第です。楽しいオタクライフをお互い楽しみましょう!

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