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自分の美しさを。

晴れ空の下、何もやる気になれず、
映画ばかり観ていた。

その中でも気に入ったのは
"永遠の美を求める人の愚かさを描いたコメディ"、
そしてもう一つは
"母親が探していた行方不明の自分の子が帰ってきたら、そっくりの違う子だったという1920年代のアメリカの事件を元にした映画"。

一つ目のコメディは確かに美を追求する愚かさといえば愚かさなのだが、それは人間の生きる希望であり活力であり、人間のみが持つ美しい側面だよなと僕は思うのだ。劇中の彼女達は誰よりも人間でありたい、こう見える。
つまり、何かを食ったり生理現象を起こしたり恋人を探したり働いたりなんてのは生物の当たり前で、そこから離れた生殖目的とは関係なく、純粋な美しいを求めるのは生物の中では気色悪く、人間特有のこだわり、あるいはキモさと言えよう。だが、人間をより追求しようとしている点は、なんとも人間の中では美しいと思うのだ。

ストーリーとは関係ないが、美という点、それをまた考えさせられるのが2つ目の映画。日本の1920年代といえばいわゆる大正モダンガールボーイが流行していた年。アメリカでも同じようなメイク、ファッションであった。劇中で子供を過酷な状況で自力で探している時、精神科病院の監禁から解かれた後も、この母親はきちんとメイクを施し、妥協しないファッションで居る。どんなショックな事があってもだ。何か現代とこの当時では美しく居ること、ファッションを身につけることの意味に違いがあるように見える。昔の方が礼儀的な意味が濃い気がする。男女ともに。

僕がよく行く大好きな理髪店がある。
そこは敢えて1930年ぐらいの雰囲気を再現し、髪型はもちろん、道具の一つまで当時を意識している。
開店したての頃に訪れた際、
そこの店長と談笑する中で
モダンな店長はファッションや日々の生活で昔の礼儀やマナーを大切にしていると言った。確かに気持ちの良く謙虚な姿勢であり、その中にカッコよさと品があるように見えた。

私は昔好きだ。
しかし、その大好きなはずの昔に身を染められない。本当は気軽に浴衣を着たり、モダンボーイな身なりをしてカッカッと下駄の音を鳴らしたい。
それくらいの独自性を欲しているのになぜかインスタに載っているようなありきたりのファッションにほとんどがなってしまう。

世間や周りを気にして10%しか自分を表現しない。これほどダサくつまらないことはあるか。
久々に自分を恥じた。

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