動きたいけど動けないときに、どうするか
「魔女の宅急便」の原作者の映画『カラフルな魔女』が1月26日から公開されたようで、そのインタビュー記事を読んでいたら、村上春樹さんとも共通する「やりたいと思ってるんだけど、できない…」を解決するヒントのようなものが見えてきました。
「やりたいとは思ってるんだけど…」
年始に立てた目標、ダイエット、筋トレ、積ん読している本、他にもありそうですが、まぁいろいろと「やりたいけど、やれてないもの」が、僕らの人生には出てきます。
こうやって記事を書くことに関しても、「書きたいけど、書けない。」なんてことになったり、「SNSの投稿を続けたいけど、続けられない」なんてことがあったりもします。
ところが春樹さんは、そんなことがこれまで無いらしい。
「さすが、才能のある人は違う…」と片付けてしまって、僕らにはできない話だと思ってしまいそうですが、実際はそうではないようです。
なるほど、「書きたいときにしか書かない」ということであれば、僕らにもできそうな話です。
やりたいのに、できなくなる理由
僕らが「書きたいけど、書けない…」というとき、それは本当に書きたいわけではないのかもしれません。仕事だから。締切があるから。何か発信をしないといけないと思うから。そういった外的な圧力によって書かざるを得ない状況になっている。もしくは、そう思い込んでいる。
実は「書きたいけど、書けない。」ではなく、「本当は書きたくないのに、書かないといけない。だから、書けない。」のかもしれません。仕事であれば、それでも書かなくてはならないわけですが、こういったnoteやSNSの投稿は、本来自由に自分の好きに活動できる場所のはず。ですが、自分で自分にプレッシャーをかけてしまっている場合もあります。
実際、僕が最近、そうなりました。
noteの1記事目は、ただ「書きたい欲」がムクムクと湧き上がってきて、勢いのままに書いた。そして読書会のメンバーに書いたことを伝え、記事のURLを送ってみると、思いのほか良い反応を得た。そこから2記事目を書こうとしたときに、なんだかうまく筆が進まない。これはなんだろうと思ったとき、そこにあったのは「外の期待に応えようとする自分」でした。「また、あのぐらいの記事を”書かなくては”!」となっていた自分。
ちょうど先述の春樹さんの言葉を読んでいたので、「これはいかん。よし、やめだ。」と筆を置いた。少し時間を置いて、外側へ漏れ出す感覚をもんじゃ焼きの土手のように囲い、内側へフォーカス。なんなら別に、もう書かなくたっていいじゃないかと思いながら、一旦別のことに集中。
そこから数日後、ムクムクっと湧いてきました。「あ、やっぱ、あれは書いておきたい」と。シンプルに、1記事目のように「書きたいと思うことを書こうじゃないか。」と思い直しました。そこからは簡単でした。どんどん書ける。
自分が"それ”をしたくなる時を待つ。自分の感覚を大切にしている。締め切りもつくらない。このあたりが、「魔女の宅急便」の原作者、角野さんの話とつながってきました。
読者受けは考えない。締め切りもつくらない。
「締切がないと動けない。物事は動かない。」という考え方が優勢な現代社会で、締切を決めずに心を自由に遊ばせている角野さんと春樹さんのお二人。短期的には締切をつくって、そこに向かって走り抜けることもできるかもしれませんが、長くは続けられない。さらに「読者に受ける受けないということも考えない。」と外からの視線、外発的動機からも距離を取っている。
そんな角野さんは驚きの88歳。内発的な喜びにしたがって生きているからこそのチャーミングさ。その生き方に、物事を長く続けて人生を楽しんでいくヒントがあるように感じます。
僕もこんなに明るく元気そうな88歳になっていたいものです。心を自由に遊ばせ、イメージしたものを形にしていく創作を続け、誰かに届けることで喜びを循環させていく。そんな生き方ができたらいい。
そのためには、余計なものは捨てて、身軽になっていく必要もある。ここで改めて「職業としての小説家」から引用。春樹さんは、その基準となる考えを示してくれています。
基準はシンプル。「楽しい気持ちになれているか?」と自分を見る。そこに自然発生的な楽しさが湧いてくるものでなければ、長くは続けられない。そんな当たり前のこと。でも、なかなかそうはできていないことが多い。
そのためにやることは、得ることではなく、削ること。
これは前回書いた、四角さんの『自分彫刻』の言葉にもつながる話。
四角さんの著書「超ミニマルライフ」では、こう記されています。
余計なものを手放して軽やかになっていくことを、春樹さんは小説を書く上でもやっていました。
小説をつくることに対して引き算で考え、小説を書いて評価されたいとか売れたいとか、そういった外的な動機をベースにしていない。その軽やかさと無欲さが、結果的にはオリジナリティーを生み出していった。
「超ミニマル・ライフ」にも、こんな一節があります。
共通するのは、何かを得ようとすることよりも、自分自身が「いかに自由でナチュラルであれるか」を大切にしているということ。
僕がこの流れで思い出したのは、バシャールの言葉。スピリチュアルな方向に話を持っていきたいわけではないんですが、僕にはどうにも同じことを言っているように思えて面白いな、と。
バシャールがよく言う3つのルールがあります。
①自分が一番情熱的になれるもの、ワクワクすることに従う
②自分の能力を最大限に使って、それを行動に移す
③結果に対する執着をゼロにして行う
①と②に関しては、自分がそうしようと思えばできる範囲。でも「③が無理じゃない?」と思っていた。どうしたって人間は期待をしてしまう。これをしたら、こうなるかな?こうなってほしいな、と。
でも、春樹さんの言葉が③を見事に現していました。
これだな、と。
そういえば、僕がnoteで1記事目を書いたときもそうだった。ただ僕の中にあるものを形にしたかった。そういえ小学生の頃、夏休みの宿題として絶対にやらなくてもいい自由工作を毎年やっていたのも、自分がイメージしたものを形にしたかったから、ただ単に自分がやりたかったからだ。あとさきのことなんて考えてなかった。
動きたいのに、動けないなら
そもそも「やりたいけど、できない。」と思っていることは、本当にやりたいんだろうか。そこが出発点のようです。
「仕事だからやらないといけない」といった場面もある。しかし、自分自身がnoteで書いたり、SNSで発信したりする場合には、「この先に何かを得られるから打算的に」という考えでやるのは、長続きもしないし、何より自分自身が楽しくない。
外の視点に引っ張られたりすることもあるけど、そんなときは少し時間を空けて、フラットになる時間を持つ。自分のなかに、「あ、そろそろやりたい」と湧き上がってくるのを待つ。
周りが忙しく動き回っている現代社会で、「自分を待つ」ことはけっこうじれったい。でも、「自然発生的な楽しさや喜び」を感じることをベースに進めていったほうが、結局は長続きする。それに、そこから生み出されたものに乗っかるもののほうが、インスピレーションにあふれているはず。そして、そのほうが良い流れが生まれていくように思います。
というわけで、自分自身の振り返りで締めとします。
ありがとうございました〜。
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