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読書の苦しみを何に例えるべきか

皆さんは本を読む行為に、どこか苦しみに似たものを感じないだろうか。いや、もちろん読書は好きなのだが、読んでいるときは何とも言えぬ苦行の中にいる心地がある。

合理的な思考の持ち主なら読書なんて割の合わない行為は滅多にしないだろうし、お金持ちになりたいとか有名になりたい、みたいな俗な思考とは対極に位置する行為が読書だ。ただそう言うと、テレビを見るとか、映画を観るとか、あるいは漫画とか、そういうことも読書と同じで割の合わない行為に類するかもしれないが、それを見て友達と話し合って共感するような事態に読書はほとんどならない。なぜなら毎月のように読書するような愛好者の数は人口の一割もいない(例えば純文学で最大瞬間風速が大きかった『火花』でも累計300万部ほど)、純文学に限れば読者は極めて母数が少ない。

僕の読書スタイルはかなりじっくり読む遅読派で、速読がチヤホヤされる風潮にモヤモヤしてたし、小説家になるには月に十冊以上読んでいないと話にならないなんて話も耳にしたことがある。
僕の読書の速度が遅い理由は、文章を読んで立ち止まる事が多いからで、美文に遭遇したりするとその周辺を何度も読み返したりするし、文章から風景や場面がありありと目の前に立ち現れたりするとその屹立した風景を頭の中でじっくり眺めていたりする(つまり妄想している)。
思想系の本でも書いてあることを自分の頭の中で再構築できないか、作者の頭と自分の頭の中身をシンクロさせようとしばらく思索する。そんなわけで一週間に一、二冊読むくらいで積読本の解消は遅々として進まないのだが、速読するくらいでいい本も世の中にはある。ただ、そんな本に人生の貴重な時間を費やすのはもったいない気がする。

僕はよく文章読本的なのもよく読むが、その中には速読しろと喝破するような本はほとんどない。ライフハック系の人生を上手く生き抜けみたいな本では効率よく本を読め的なものが溢れているし、映画も内容だけ知ればいいみたいな風潮もあるが、それを喧伝する輩が大体薄っぺらいから信用ならない。
平野啓一郎は新書でじっくり読む奨めを述べている。ショーペンハウエル先生も一冊の本は何度も反芻するくらい読んで考えろと仰っている。世の中がいくら速読や5分で完結する感動作を欲しても、時間をかけて何かが身に沁みいるような読書に勝てないものがある。

それは読書の「苦しさ」ではないだろうか。苦しさの末に、見える景色がある。

『グランブルー』という映画がある。リュック・ベッソンが監督したフリーダイビングの話だが、読書の苦しさもあれに似ている気がする。息を止め、身体の限界まで暗く深い海の底に潜っていくあの世界、苦しいけどまだこの先に何かあるかもしれない期待、そのまま見えない海底に引き込まれてしまうかもしれない恐怖、いや、むしろ引き込まれても良いとさえ思う高揚感、それは息を止め、深く深く潜らなければ見えない、感じられない境地。

巷で売れている五分感動本は浅瀬で少し顔をつけて、海の中を覗くくらいの体験と言えるかもしれない。もちろん五分で読める本を何度も何度も繰り返し読み込むことで違う世界が見えてくるかもしれないが、それは単に浅瀬にたまたまいたクラゲか、ヒトデくらいのもんだろう。

何度も何度もページをめくり、言葉を何度も何度も刷り込まれ、段々と圧が強まって息も苦しくなっていく中で見えてくるものは、人によって全く違う景色だ。ある人は誰も見れない自分だけの世界を垣間見て、浮上した時に再度潜りたいと願うだろうし、ある人は溺れかけ、もうしばらく潜りたくないと浅瀬に引き上げる。その得がたい経験が読書の醍醐味で、そこにはいつも苦しい息止めがある。

本が売れなくなった、読書する人が減ったのは紛れもない事実だが、本好きな人はその後進となるべき若者に読書の苦しさを教えていった方がよさそうだ。学校ではある程度の潜り方は教えてくれる。浅瀬を覗くくらいならそれくらいで十分だが、果たして苦しいくらいに潜ってクタクタになった身に、脳を揺さぶられる程の恍惚が待っていることを伝えているだろうか。この作品は面白かった、つまらなかった程度の感想では、誰も潜ってみようと思わないし、わざわざ苦しい思いしなくても、その辺の浅瀬や陸地にあるゲーセンで暇をつぶしてしまうんじゃないだろうか。

そんなことを考えながら最近読書会を立ち上げたいと思い、サイトに登録してみた。ダイビングスポットとして苦しみを話し合える仲間がいればいいな、と思った。


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