母語について考える

今日たまたまセミリンガルの記事を目にしたので、母語について少し考えてみたいと思います。

セミリンガルというのは、2つの言語を話すことができるものの、どちらの言語能力も中途半端なレベルで母語と呼べるレベルまでは達していないというような状態で、要するに、セミリンガルというのは母語と呼べる言語がないということになります。ダブルリミテッドとも言うようです。

外国語を学ぶという観点から考えても、母語の役割は非常に大きいと思います。というのも、私が考える母語とは、それを用いて論理的・抽象的な思考ができる言語が母語なのですが、外国語を学ぶ場合、特に、ある程度の年齢になってから学ぶ場合は、母語による論理的な説明が不可欠です。もちろん、最終的にはその外国語を母語による説明を介さずに理解できるのが理想ですが、学習の過程では母語なしに外国語を学ぶことは困難だと思います。

これは考えてみれば当然のことで、ある程度の年齢、例えば、中学生か高校生ぐらいの年齢になってから、日本語の説明も全くなく英語やタイ語を勉強するというのは絶対に不可能だとは言いませんが、かなり困難なことですし、少なくとも、母語を介して理屈を学んだほうが外国語を身に付けるには効率的だと思います。例えるなら、外国語学習における母語というのは、小さい子供が自転車に乗る練習をする時の補助輪のようなもので、最終的にはそれなしで乗れることが目標ですが、練習の過程ではそれがあったほうが結局は早く乗れるようになるわけです。

セミリンガルあるいはダブルリミテッドと呼ばれるような状態の人のことを考えた場合、どちらの言語も論理的な思考や抽象的な思考をするだけの能力がないわけですから、論理的な思考力も抽象的な思考力も当然つきません。なぜならば、私たちは論理的なことを考えたり、抽象的なことを考えたりする際にも無意識のうちに母語を介してそうした思考をしているからです。例えば、今私が書いているような内容でも日本語という母語がなければ書けないわけです。逆に考えればよく分かるのですが、英語はおろかタイ語でさえも論理的な内容や抽象的な内容を母語である日本語ほどスラスラと書くことが私にはできません。

ということは、セミリンガルあるいはダブルリミテッドと呼ばれるような状態の人は、論理的な内容や抽象的な内容を学ぶために本を読むということもできないわけです。私が読んだセミリンガルの記事では、セミリンガルの例として小さい頃はずっと英語の環境で勉強していて、小学校から日本語の学校に入ったけれども日本語の読解力が低いため勉強に苦労し、算数の文章問題でも一読しただけではどういう問題なのか分からないというようなことが書いてありましたが、結局、どんな勉強でも国語、つまり、母語の能力がなければ始まらないといういい例です。これは、英語という教科でも当然同じことが言えるわけで、やはり、外国語を学ぶ上では母語の能力は欠かせないと言えます。

ついでに言えば、日本で育った日本人ならほとんどは日本語を母語としており、だれでも日本語は話すことができますが、「母語の能力」ということに関しては当然個人差がありますので、母語の能力がより高い人のほうが外国語の学習においてもより早く身に付く可能性が高いと思います。ということで、やはり、母語の能力を高めることを疎かにしてはいけませんね。

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