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かくして“放浪のプリンセス”は彼岸のアメリカへとフェイドアウトする。ー文化人類学的王権論

 小室圭君と秋篠宮家のプリンセス真子さんとの記者会見、その後のメディアの狂騒が去ったところからこの問題に関わるテーマが何であったのかを、ひとまずワイドショーと一線を画した地平において整理しておきたい。

 僕が『ミカドの肖像』を書いた直後に文化人類学者の山口昌男と対談した『ミカドの世紀末』という本があります。平凡社から刊行(87年)され、その後、新潮文庫(90年)になり、それこそ世紀末に10年振りに小学館文庫として増補版(98年)が出ました。

 この本のなかで山口昌男は重要なことを指摘している。ウィリアム・ウィルフォードというユング派のセラピストの『道化と笏丈』で、王は潜在的なスケープゴートであるが、多くの場合、王権はこの役割を宮廷付きの道化か王子に負わせる、と述べている。
 シェクスピア『リア王』は、スケープゴートとして最後には道化とともに彷徨う。
 王は秩序を表し、追放され放浪するプリンスはカオスの象徴である。記紀神話ではアマテラスに対してスサノオやヤマトタケルを生み落とした。

 村落共同体を周期的に訪れる 〈異人 (存在論的他者)たち〉、たとえば僧、聖、行商、山伏、傀儡師などの芸能の民たちは貴種流離譚を携えて村々へやってきた。彼らは共同体のなかの古くなり、穢れた時間を害虫や疫病とともに除去して境界外に葬り去り、時間の蘇りをもたらす存在となった。定住する村人にとって、これらスケープゴート的主人公の説話は、諸国を放浪する芸能の民そのものの境遇に重ねられているかのように映じたのだ。彼らの秩序は、こうした異人が持ち込む混沌や刺激を組み込むことで成り立っていた。

 この村落的世界は国家レヴェルの想像力においても再現され、記紀神話のスサノオノミコトやヤマトタケルノミコトとして現れる。そうした存在を通して、罪、近親相姦、反逆、疫病、闘争、時の腐食など、秩序に統合不可能で理解不能な部分に形や場が与えられた。すなわち、王権が日常生活の秩序の基礎であるとするとすれば、皇子は非日常的諸力の化現といえる。

 これは現代の天皇制にもあてはまる。
 明治大帝に対して「脳膜炎様のご疾患に罹らせられ」たそのプリンスである大正天皇は、帝国議会で詔書をクルクル巻いて望遠鏡のようにした眺めていたとのうわさは、庶民にとっては道化そのものとして内輪の会話のなかでは嘲笑の的であった。
 昭和天皇は戦前の「御真影」の威厳と、戦後の「行幸」でのオクターブ高い「あ、そう」の声は、一身に威厳と道化の二つの要素を込めてそれが平和の時代の一時的な回答として理解された。
 こうした構図は、プリンスに限らず追放されたプリンセス・ダイアナ妃の悲劇にも見られたし、そのもっと前にはシンプソン夫人との「王冠を賭けた恋」で知られるエドワード8世の追放劇にも見られた。
 これをさらに今日に引き寄せて言うなら、90年代の平成に入った直後の週刊誌による美智子皇后バッシング(失語症になってしまった)、00年代の雅子皇太子妃バッシング(適応障害)と国民はスケープゴートを求めた。

 ほぼ1年を費やするアメリカ大統領選は、4年に1度の内乱による王位継承戦争であるとここに書いたことがある。王権の正統性を担保するためにはカオスが必須であることを物語っているのだ。
 振り返ればケネディ家は明らかにロイヤルファミリーとして扱われていたのは暗殺というスケープゴートとなる事件があったからだ。
 民主主義であろうと独裁者の国家であろうと、王権の本質は変わりない。
 王権のもつ過剰なエネルギーの消費の形態として、今度の小室圭君と秋篠宮家のプリンセス真子さんの異常とも思われる騒動(バッシングの熱狂と複雑性PTSD)が顕れたのであるる。
  放浪の旅は、ひとまず渡米というかたちで終着駅へ向かうことになるのだろう。

 10月28日木曜日18時半からの文藝春秋オンラインで、日本思想史研究(日大危機管理学部教授)の先崎彰容氏と僕はこんな話をしたのでした。


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