二宮金次郎に学ぶ「ゼロ成長」時代の行政改革   『公』より抜粋


『公〈おおやけ〉日本国・意思決定のマネジメントを問う』から「二宮金次郎に学ぶ「ゼロ成長」時代の行政改革」を公開します。

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二宮金次郎とは何者なのか

 道路公団の民営化に当事者として取り組んでいた僕に対しては、永田町や霞が関、虎ノ門の関係者だけでなく、それこそメディアからも批判の嵐だった。そんな批判に耐えていた僕はふと、子どものころに見た二宮金次郎の銅像を思い出していた。
 一度、旅行の帰路に神奈川県の小田原城近くにある二宮金次郎の博物館へ立ち寄った記憶が甦えり、5月の連休の昼過ぎ、あまりにも空が青いので、突然、思い立ち小田原までクルマを飛ばした。
 東名厚木インターから小田原厚木道路へと入り、酒匂川の畔へ着いた。金次郎の藁葺き屋根の生家がある。風景を眺めながら19世紀初頭の暮らしを想像した。
 二宮金次郎といえば、薪を背負いながら本を読むその姿と合わせて、「質素・倹約の人」「勤勉の人」「努力の人」「親孝行の人」のイメージが強い。
 第二次世界大戦前に銅像が全国に普及し、やはり勤勉や努力をうたった教育勅語の中身と結びつけ、軍国主義イデオロギーの象徴と思っている人も少なくない。
 ところが、調べていくと、文化文政期に活躍した二宮金次郎の真の姿は、一般に抱かれているイメージとまったく異なるものだった。金次郎の真骨頂は、独自のシステムで、行政改革に挑み、産業再生機構にあたる仕組みをつくり上げたところにあった。
 両親が早く亡くなり、親戚の家に預けられ、奉公に出た金次郎は、やがて薪を集めて小田原の町に出て売れば、奉公の賃金の何倍もの収入になると気づく。換金商品としての薪の発見である。
 当時は入会地で柴や薪を集めるのは厳しく制限されていたから、金次郎は里から離れた山地へ入り間伐材を切って束ね、何里も離れた小田原まで担ぎ、城下町・宿場町で売り歩いた。生産、流通、販売をひとりでこなしたから利益率は高くなる。
 現代の家計に占める光熱費は平均6パーセント程度だが、江戸時代の都市部では燃料費は15パーセントほどかかっている。江戸時代はその辺に薪が落ちていると思うのは勘違いで、当時のほうが手に入りにくかった。
 だからこそ石炭がない時代におけるエネルギー源の薪の商品価値は高く、そうして稼いだ資金を元手に、金次郎は20歳のときに生家の再興を果たした。
 手腕を見込まれた金次郎は小田原藩の家老を務めていた服部家から、財政再建を依頼される。
 江戸時代は、江戸開府から100年、1700年の元禄時代までは高度成長期で、人口も1700万人から2倍近い3000万人にまで増えた。しかしその後は幕末までゼロ成長時代が続いた。
 金次郎は文化文政期の人である。金次郎が活躍する江戸時代後期は、非常に発達した市場社会であり、当時の金利は10パーセントから20パーセントとかなり高い。そこで金次郎は、「金次郎ファンド」と呼ぶべき独自の仕組みをつくり上げる。
 金次郎は、低利融資による借り換えの仕組みを考え出した。
 百姓とは、農業だけでなく油屋、醤油屋、鍛冶屋、織物屋、あるいは特産品の生産・販売など、いわば東京・大田区の町工場のような多様な物品を生産している零細事業者である。彼らはいつも金詰まりで汲々としていた。
 金次郎が考えた融資方法は、明らかに高利貸しとは違った。たとえば10両を貸す場合、原則5年賦無利息返済で年2両ずつ返してもらえば、5年で返済は終わる。ただし、完済できた相手には、6年目に「冥加金」という名目でもう2両出させるのだ。
 この2両は実質的な金利であると同時に、「金次郎ファンド」への出資金だった。ファンドに集まった資金を、内部では低利で融資し、外部には相場で運用して、さらに増やしていった。
 ファンドに続くもうひとつの金次郎の発明が「分度」である。
 服部家の支出に、実収入に見合った上限を設定し、そのなかで家計をやりくりさせるもので、倹約のように見えてじつは真逆の概念になる。倹約がともかく支出を抑えることに主眼を置くのに対し、分度は支出を明確にすることで、余剰資金を投資と運用にあてるのだ。

日本に宿る金次郎のDNA
 これらの手法で金次郎は、千数百両もあった服部家の借金を5年で完済し、300両もの余剰金まで残す。これにより、金次郎の名声は小田原藩内では知れ渡るようになり、小田原藩士に取り立てられ、小田原藩主・大久保家の分家で旗本・宇津家の知行地だった下野国(栃木県)桜町領5000石の立て直しを命じられる。
 桜町領は、元禄時代には人口1900人だったが、文化文政期には3分の1近くまで減り、住民は昼間から酒をあおり、賭博に耽って、家屋は雨漏りして耕作放棄地も目立つほど荒廃していた。ネガティブな空気を取り払うために村のそこかしこを覆っていた雑草をきれいに刈り取ることから手をつけた。当初、村人の抵抗は尋常ではなかった。
 最初の1年間を調査にあてた。一軒一軒を回って暮らし向きを調べた。それぞれ借金がどれだけあるか、耕地のうち田と畑の比率はどのくらいか、人口が減った結果、放置された草ぼうぼうの荒地の占める比率はどのくらいか。
 まず100年前の元禄時代の年貢高の平均値を調べ、直近10年間の年貢高の平均値り調べた。100年前に較べると3分の1でしかないとわかった。人口減少社会のなかでの基準を過去に求めれば、どうしても無理が生じるので人びとは村から逃げ出して、いっそう人口減少が激しくなる。そこで領主に対して、今後10年間の年貢高の基準を直近値にすると提言した。その基準値以上の余剰分が出たら投資と運用にあてれば、意欲が生まれる。
 新田開発によって収入を増やしたり、村人たちの出資で米商社をつくり、相場の高いときに売るなど、生産だけでなく販売まで視野に入れた。こうして桜町領の米の生産高は加速度的に上向いて、天保の大飢饉さえ乗り切った。
 金次郎のやった仕事は、経営コンサルタントだけでなく、苦境に陥った企業に融資して再生させる産業再生機構のような公的な役割だった。ファントをつくって融資を行い、経営効率を上げるためにあらゆる指導をする。こうして売上高より利益率の向上、つまり生産性を高めることに成功した。人口が減って全体のGDPは伸びなくても、1人当たりのGDPを増やすことはできる。
 金次郎の改革は、桜町領の再生だけでは終わらなかった。やがて金次郎ファンドは1万両を超えるまで膨らんでいく。関東の各地のみならず北は福島県の相馬藩まで、金次郎の改革が及んだ。その方法論は、いまの静岡県から愛知県の尾張にまで伝播した。
 トヨタ自動車の創業者としてその名を残す豊田佐吉の父、伊吉は、金次郎の教えを生活の信条としており、佐吉もまたそれに帰依した。つまり、世界に冠たるトヨタが誇るカイゼンには、金次郎のDNAが宿っているのだ。
 僕は道路公団民営化でバッシングを浴びているときに『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?』を書いている。メディアは改革潰しの先鋒になり、決して味方ではなかった。
 それはのちの都政改革でも同じだった。そして金次郎に励まされた。
『道路の権力』『道路の決着』とこの本を併読していただけるとありがたい。金次郎は桜町領でさんざんバッシングを受けたが、改革における数値目標を設定することで、閉塞感を打ち破りモチベーションを高めた。(公開はここまで)

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