戦争は突然始まるのではなく、想像力が呼び寄せるのだ。『昭和16 年夏の敗戦』のシミュレーションまでに長い道程があった。だから『黒船の世紀』を書いた。

 海軍のエリートは狭い日本とは別の外の空気を吸っていたから“ハイカラさん”が多かった。
 福永恭助は結核に罹って34歳で海軍少佐の職を辞してのち、日米未来戦記作家になった。鎌倉に住み、長野県の野尻湖に別荘を持っていた。ヨットやスキーなどアウトドアスポーツもやればドイツ製のカメラを持ち歩き、現像も自分でやった。わざわざSKD(松竹歌劇団)の楽屋まで出かけて、旧知の水の江滝子を撮ったりもする。
 鎌倉の家は洋館で和室がひとつもなかった。当然のことだが靴履きのまま部屋に入るし、寝室はベッド、トイレは洋式という生活である。正月もパンとコーヒーで過ごした。時間があれば最新式の蓄音機でシャンソンのレコードを聴いていた。
 過去の日米未来戦記作家たちには独特の屈折した心情がみられたが、福永の場合はこうしたライフスタイルに映し出されるように、もう少し割り切った側面が感じとれるのである。
 水野広徳は下級武士の家に生まれ極貧の少年時代を送ったこと、日露戦争を体験したこと、第一次世界大戦で荒廃したヨーロッパを見聞したことなど強い内面からの欲求で筆を執った。ホーマー・リーはその明晰な頭脳にもかかわらず、ハンディキャップを負っていた。自分を将軍、に擬してロマンティシズムを体現した。
 ヘクター・バイウォーターは、第一次大戦で英国のスパイとして活動した体験が表情に翳りを与えていた。
 夏目漱石の下の池崎忠孝の脳裏にはつねにライヴァル芥川龍之介の存在が重苦しくのしかかっていた。
 彼らには日米未来戦記を書くための私的なモティーフがあった。福永は、こうしたこだわりから自由であった。
 代表作『日米戦未来記』の序文で、「(これまでの日米未来戦記は)蝋を噛むように詰まらない物語だったり、難しすぎる戦略論で一杯だったり」で、少しもおもしろくない、と述べている。プロの作家を自負していた。空事を描いて、読者をグイグイと惹きつけていこうとするのには、余程の腕がなくてはダメなのだ」と。
 水野たちを純文学の作家にたとえれば、福永はエンタテインメント作家といえる。とはいえ福永も軍人であり、その軍人としての出世を断念して作家になるのだから、結核は挫折にちがいない。海軍兵学校を出たもののうち少数の成績優秀者が海軍大学校に進む。福永はこれに選ばれた。順調だった。ところが、大正6年にフランス政府から製造を依頼された駆逐艦を佐世保から地中海のマルタ島に回航する特務艦隊の参謀としての任務を終え帰国すると、すぐに入院した。
 病気はそれほど重くはなく、一時的に快方に向かったので、画家を目指してフランスに遊学した。裕福な家でないとできない。パリに滞在しているころ、フランスの小説を訳して送れ、と出版社からの依頼を受け、ずるずるともの書き業にはまっていく。
 このころ『中央公論』にローマ字論を発表している。日本語は遅れている、全部ローマ字にしてしまえ、というのである。乱暴な意見のようだが語り口はもの静かで、細面で鼻筋がとおった優男のイメージを裏切ってはいない。
 このローマ字信奉のモダニストにしてエンタテイナーは、過去を引きずるよりもずっと素直に、あるいは単純にかもしれないが、未来にこだわっていた。なぜなら、新しい読者はつねに未来からやってくるからである。
 福永は『日米戦未来記』で、制空権が戦争の鍵を握る、と予測した。
『日米戦未来記』は、新潮社の月刊誌『日の出』の昭和九年新年号特別付録である。付録といってもソフトカヴァーの単行本の体裁だった。『日の出』は大日本雄弁会講談社のメジャー誌『キング』に対抗して昭和七年に創刊されていた。
 ワシントン軍縮条約で英・米・日の保有艦比率は五・五・三に制限されていた。条約の期限切れは、1936年(昭和11年)に迫っている。
  
 物語は、第二次ワシントン軍縮会議が1935年に開かれ決裂するところからはじまる。無制限建艦競争の時代がやってきたのである。そうなると経済力に差のある日米両国の艦隊保有数は開くばかりだ……。
 ひとりの青年将校が、こうした軍部の焦りを敏感に反映する。ある日、血気にはやった若い駆逐艦長、牧英太郎大尉は、上海沖に停泊中のアメリカ巡洋艦に魚雷攻撃を仕掛け爆破させてしまう。これ以上彼我の差が大きくならないうちに日米開戦に持ち込もうという魂胆であった。
 ラジオがこのニュースを伝える。
「さきほど臨時ニュースでお知らせしましたことをもう一度繰り返します。本日午後四時十五分、米国アジア艦隊ヒューストン号がウースン沖に停泊中撃沈されました。……なお、続いてニュースが入りますから、どうぞそのままでお待ち願います」
 アメリカの太平洋艦隊が日本沿海に向かっていた。
 日本の連合艦隊も決戦に向け太平洋を東へと向かう。
 つぎのような描写は、たしかに水野に較べると手慣れている。
 ……卓上の電気スタンドが、海図を覗き込んでいる長野大将の横顔を浮彫のように見せていた。ごま塩の頭髪に、聡明らしい広い額。眼には鋭い理知の光が閃き、一文字に結んだ大きな口には重大な決意が表れていた。
「ふむ」と長官は顔を上げて、傍らの参謀長にいった。
「それで、両軍の航空兵力の比較は?」
「戦闘機で比較しますと、敵はサラトガとレキシントンが各54機、それから巡洋航空母艦のタコマが18機で合計126機であります。これに対してこちらの艦隊航空隊の戦闘機がすべてで105機」と、これまた小粒ながら軀全体が智恵の塊りといったような参謀長が答えた……
 こうして戦争の決着は、一気に制空権の問題として語られるのである。航空兵力は126機対105機で、アメリカ側が優勢だった。ところが日本側の駆逐艦が夜陰に紛れてアメリカの航空母艦を撃沈した。
「敵の戦闘機は全部で72機、こっちが105機で絶対優勢になりました」と航空参謀が報告するのだが、このあたりは話が都合よくできすぎている。
 結局、制空権を握った連合艦隊にとって、アメリカ艦隊は張り子の虎でしかない。
「まったく沈黙している敵艦に対する射撃、いいかえればいくら打ちまくってもオツリというものが一発もこない射撃というものは何であるか、といえばこれはもう実戦ではなくて、ふだんの標的射撃も同然なものではないか。まことにそれは、日本艦隊にとって、赤児の手をひねるよりも容易な戦闘なのであった。距離は近し、敵からは一発の弾丸も飛んでこない。しかもこちらは悠々と空中観測をしながら一隻また一隻と沈めていく」
 戦闘が終わり、日本が勝利し、最後はこんなシーンで締め括られている。
「(主人公の兵士が)新占領地のホノルルに向かって横浜を出帆する秩父丸に乗ったのは、それから半年の後だった。船のなかには戦勝を記念するためにワイキキの公園に建てるという牧大尉の銅像が積まれてあった」
 ハワイは日本の領土になる−−。
 この結末がアメリカで物議をかもすとは、“穏健派”の福永も予想していなかった。
 ハワイの邦字新聞『布哇報知』(昭和8年12月14日)は、『日の出』が税関で没収されたと伝えている。
「12日入港の秩父丸で当地に着荷した雑誌『日の出』の第一付録、海軍少佐福永恭助氏著小説『日米戦未来記」が突然当地税関で没収された。……ドイル税関長は数冊を参考のため当地米国陸海軍当局へ送付し、着荷した2000冊のほとんど全部は焼いてしまったのである」
 これが日本にも伝わった。ハースト系の新聞が英訳を掲載し、大騒ぎをしている、と。
「ホノルルにおける没収事件から米国民の神経を鋭く刺激する雑誌『日の出』掲載の日米戦争論は、ますます煽動的新聞記事の材料となり、ワシントンヘラルド紙に十五日から連載される英訳全文は、そのまま各地のハースト系新聞に特筆転載されつつある」(大阪毎日、昭和9年1月17日付)
 たしかに日本が勝利するだけでなくハワイが日本領となるという結末は、アメリカ人には不愉快であったろう。
 それにしても、『布哇報知』も「火星探検記や科学小説と同様なる性質のもの」と書いているように、あくまでもエンタテインメント小説である。なぜこれほどまでに過剰反応を起こしたのだろうか。
 日米未来戦記は、日本とアメリカ双方が太平洋を挟んで育んできた共同幻想の産物であった。
 ホーマー・リーの『無知の勇気』やパラベラムの『バンザイ!』は日本の脅威を煽り、水野広徳の『次の一戦』はアメリカの脅威に対する準備を訴えた。
 そして、相手国の脅威をことさら強調する危機の商人たちは作家や評論家だけではなかった。ハースト系の新聞は部数拡大に利用したし、軍関係者は軍縮世論を牽制するために書き手に情報を流したりもした。
 しかし、これはそれほど単純ではない。日米未来戦記にみられる宿命論的な図式は、ふつういわれる排外主義とは様相がことなる。日本には黒船が刻み込んでいった癒しがたい傷痕があったのと同じように、アメリカには日系移民の背後に得体の知れない異文化への恐怖心があったからである。
 それは、これまでのアメリカ側の日米未来戦記が、すべてハワイや西海岸の日系移民が日本の軍隊と相呼応して決起するという筋書きを持っていたことから窺い知ることが出来る。そして第二次大戦下、アメリカで、ドイツ人やイタリア人をおき日系人だけが強制収容されたという事実には、アメリカ人が日本に対して持ちつづけた、こうした得体の知れない“恐怖”が働いていたとも思えるのだ。
 福永の『日米戦未来記』がハワイの税関で没収焼却されたのは、日本で空想的と考えた以上に現実感をもってアメリカがこの物語を捉えたため、ということができるのである。
 1930年(昭和5年)に『われらの海軍 (OUR NAVY)』という月刊誌に半年にわたって連載された『ザ・タイド・オブ・バトル(THE TIDE OF BATTLE)』の存在も、ハワイ税関没収事件の引き金となっていただろう。
 著者のエリオット・フィールディングは、駐在武官として日本に滞在した経験をもつ陸軍少佐であった。タイトルを邦訳すれば『戦争の潮流』ということになる。
 戦争は日本軍によるサンフランシスコ港とハワイ真珠湾への奇襲攻撃で開始される--。
 オアフ島沿岸の無線電信所で通信士官があわてている場面は、パラベラム著『バンザイ!』に酷似している。敵はいつの間にか来ているのだ。
「海底ケーブルが不通です。サンフランシスコも、ミッドウェイも出ません」
 そこで近くのパールハーバーの無線電信所を呼び出した。しかしここも通じない。やっと、港に停泊している潜水艦と交信できた。相手は叫んでいる。
「暴動だ! 陸上から銃声が聞こえてくる。パールハーバーの無線電信所に爆弾が投げこまれたらしい。犯人は日系人だ」
 そこで急いでサンフランシスコを呼び出した。やっと応答があった。「日系人がいま……」と打電した瞬間、弾が投げ込まれた。たちまち無線電信所は炎に包まれた。
 それから20分と経ないうちに、オアフ島西端のカナエ岬の灯台からパールハーバーに電話で報告があった。
「国籍不明の飛行隊、急速に接近しつつあり」
 翼に日の丸が描かれた飛行機は、パールハーバーに爆弾を投下し飛行場と航空機を破壊した。
 日本の飛行隊は航空母艦から発進したのではなく、オアフ島西方六十マイルにあるカワイ島から来たのだ。カワイ島では日系人の暴動が起きていた。暴動と前後して空母「赤城」「加賀」「鳳翔」などを中心とする機動部隊が接近した。日本軍は迅速に飛行場を建設し、オアフ島に奇襲攻撃をかけたのであった。
 戦闘に参加した米軍パイロットが上空からみた戦闘の様相は、のちの真珠湾攻撃を思わせる。
「軍港の破壊は進行中だった。機雷や爆薬を積んだ輸送船や火薬庫の爆発でいたるところで炎が渦巻いていた。燃え上がる倉庫や石油タンクから深々と煙が吹き上がっている」
 かくして日本軍はハワイとサンフランシスコを占領し優勢に戦争をすすめた。西海岸一帯が制圧されるところはアメリカの日米未来戦記の伝統を踏まえている。
 ところが英国、オーストラリアなどがアメリカに味方して参戦したので、戦況は逆転、アメリカの勝利で幕を閉じるのである。
 日本は賠償金を免れたが沖縄、小笠原、台湾、マーシャル、カロリン、マリアナ諸島を失った。
 こうして福永の『日米戦未来記』とフィールディングの『戦争の潮流』を重ね合わせると、現実の日米開戦の輪郭が浮き出てくる。(公開はここまで)

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