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14日目:「写真」とは君がいた記憶(100日目に40歳になる猪瀬)

下手の横好きという言葉がある。下手なくせにやけに熱心という意味だとザックリ理解しているこの言葉は、まさにこれは私の趣味の一つである写真にぴったりだ。

なんといっても、10年近くカメラと共に過ごす生活をしているが、いまだにシャッター優先モードと絞り優先モードの違いがわかっていない……。

なんとなくシャッターをきればそこはかとなくいい絵が撮れてしまう文明の利器に全力で依存している(ありがとう富士フィルム!ありがとうX-H1!)。

敢えて言おう、私は素人であると。

今年に入ってからこれではいけないと思い、ようやく本を読んだり人に尋ねたりし始めたものの、知識と経験の壁はなかなかに分厚く、思い通りにカメラを使いこなせず、もはや年末である。

いま力が欲しいかと尋ねられたら、赤べこが壊れたかのように高速でずっと首を縦にブンブン振り続けるだろう。

ただ、そうやって写真を撮ることについて調べたり考えたりしているうちに、ある発見があった。それ以来、知識や経験は不足しているものの少しずつ自身の写真には変化があったので、今回はそれを紹介しようと思う。

① 「写真」 とは

とその前に、いつもどおり「写真」の意味を調べよう。検索に文字を打ち込むとすぐに出会うことが出来た。

そういえば「新明解国語辞典」はアプリ版と書籍版の両方とも持っているので、もし辞典を引く表現に言葉の揺らぎを感じていたら、きっとそのせいかもしれない(私の力量不足ではないと信じたい)。

しゃしん【写真】
・意味
 〔もと、肖像画の意〕写真機で写して印画紙に焼き付けたりメモリーカードに記録したりしたもの。〔広義では、映画を含む〕
・かぞえ方
 
印画については一枚・一葉・一点
出典 :『新明解国語辞典(第8版)』(2020)三省堂

「写真」に肖像画の意味があったのは知らなかった。

物体として存在する紙と情報でしか存在しないデータ、写したものを表現する媒体が時代とともに変化しその形状はかなり異なるのに、どちらも「写真」と呼ぶのはなかなか趣ある言葉だ。

② 私の釈義

写真とは君がいた記憶

私が写真を撮る目的はなんだろう?

この問を自身に投げかけたのは2020年になってすぐのことだった。なぜかわからないがふと問いが頭に浮かんだのだ。

真っ先に思いついたのは、子どもの成長を記録するためだった。続いて、自分が見た景色を子どもに伝えるために記録したいとか、ありふれた日常を平穏な記憶として記録したいとか、そんな想いが湧いて出た。

ひととおり洗い出し終えて、強く絞られた後のスポンジのようにスカスカになった頭に、私は尋ねた。

なぜそんなことをしたいのだろう?

わざわざ重い機材を持って何キロも移動したり、一瞬の貴重な瞬間を自分の目ではなくファインダー越しに眺めたりするのはなせだろう。そんなことをしてまで目的を達成したい理由などあるんだろうかと……。

ない頭を小一時間掻き回して、思いつく限りの言葉を書き出して、そして私は発見した。気づいてしまったのだ。写真を撮る意義に。

私にとって写真を撮るとは生命の発見と賛美だった。

いまこの瞬間、我が子は何を感じているのか。そしてその視線を向けられている先には何があるのか。私が意識して気づかなければ通り過ぎてしまったであろう日常の場面から、命の輝きともいえる瞬間を見つけて、写し、遺しておきたいのだ。

生命といったがこれは人や自然だけではない、人工的な機械や構造物でも同じことが言えると思っている。

人はこれまでの生き様を体現しているし、景色はそこに根付いた人の生活や自然の恵みを伝えてくれる。機械や構造物であっても人の願いを叶えるために作られている。だからどんなものにも息吹を感じる。

そしてこの意義に気づいたとき、私は我が子に感謝した。なぜなら、私がいくら生命への発見や賛美をしようにも、そこに君がいなかったらこの想いは始まらない。写真は君の成長の物語であり、君とともに歩んだ私の記憶なのだから。

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■ 辞典は読み物!!


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