音楽と凡人#01

 初めて人前で歌った自分の曲は"凡人"という歌だった。天才だと思って声を枯らしながら歌った。バンドを始めたのは10代の終わりで、バンドを諦めきれない今は20代の終わりである。
 
この連載では、頭を抱えながら過ごしたこの10年を小説のように掘り返しつつ、また、自分だけの日記のようにかっこわるい部分もさらけ出して書けたらと思う。毎週日曜に週間連載で、ありとあらゆることを書いていきたい。バンドが楽しくなり大学を辞めた時のこと、メンバーを探しに大阪へ引っ越した時のこと、バンド解散後一人になって勢いで上京した時のこと、夢の味も知らないまま適当に過ごしていられる年齢ではなくなってきた今のこと、自分の心を探すためにも真剣に書いてみたいと思う。飾らずに書けば、自分のことを書くということは誰かのことを書くということになるような気がする。何度となくメンバーがいなくなりひとりぼっちになったのに、何故未だこんなによくわからない生活を続けているのか。一人称は、「僕」はそらぞらしいし、「俺」もなんとなく読みにくいかもしれないので「私」で統一しようかと思う。

バンドを解散した時のこと

 「でかいステージへこいつらを連れて行くことができませんでした」
 今から三年ほど前、知り合いに連れられて行った大阪難波のライブハウスでトリの知らないバンドが泣きながらMCをしていた。いっぱいになった250人のキャパシティの後ろの方でその嗚咽のような喋りをぼんやりと聞いていた。ボーカルは音楽活動を続けるがその他一切のメンバーはバンドを辞めて就職するらしい。無名のものたちのちいさな活動はこんなふうに人目に触れることなく”解散”という一種のお決まりによってピークを迎える。結成されたバンドの数よりも解散したバンドの数の方が多いんじゃないかという気さえしてくる。
 「知るか、そもそも誰やねんお前ら、うっさいわぼけ」
 私はそう小さく呟きながら涙が止まらなかった。その数日前、同じ経験をしていた。解散ライブはなかった。

 GOZORO’Pは地元京都の中学の同級生で結成された、2017年の6月から2020年の2月頃までの約2年半、関西を中心に活動していた4ピースバンドである。日本語のロックの最前線に立つため、本質的な表現と音楽的なリズムの共存を目指すという崇高なスローガンのもと日々スタジオで音を鳴らした。気心の知れた仲間と永遠に放課後のような時間が続くと信じきっていた。
 自分が最終的にそのような解散をするとは全く想像していなかった。自分だけは違う、とやはり皆が思うのだろうか。GOZORO’Pの最後の話し合いは小学生の頃から通っていた近所のマクドナルドで行われた。
 「ほんで結局どうしたいん?」
 「○○かな」
 メンバーの一人の返事を聞いて目眩がした。という記憶だけが残っている。それがどんな言葉だったかは全く覚えていない。無声映画のリマスター版みたいに、情景だけが変にリアルに脳にこびりついている。
 その頃の私は何かにつけてメンバーに苛立っており、またそれを隠すこともなかった。一人勝手に色々なことを背負い込み、様々な抽象的な言葉で努力を求めた。今になって考えれば、ただひたすらいい曲を作ってあとは任せてしまうとか、具体的な事務作業を割り振るとかできたのかもしれない。二十代半ばの自分には不満を抱え込むことと自分の理想を押し付けることしかできなかった。
 解散は話し合いのはじめの方に決まり、あとは解散ライブをするか、音源を作るか、四人で買った車をどうするかなど事務的な話が中心であった。
 このマクドナルドでの四人の話し合いが行われる数日前、私はベースと二人で天山の湯という銭湯に行って話した。もともとこのベースと二人で始まったのがGOZORO’Pの原形であったので、バンドを続けるために必要な話し合いとして二人で話したかった。この二人での話し合いが余計に話をややこしくさせてしまったかもしれない。その夜のベースとの話し合いの中で、新たにドラムとギターを探す可能性が出た。しかし家に帰ってひとりになり冷静になった私は、心からそんなことを望んでいるはずもないことに気づいた。そして四人での話し合いの直前になって、やっぱりこの四人でなければバンドをやる意味がないし自分のやりたいことができない、と伝えた。結果的にどっち側にも嘘をついたような形になってしまった。優柔不断な私は、その4人でバンドをやりたいという自分の気持ちにすら気づけていなかった。
 解散ライブの予定はコロナウイルスの流行と共に流れ、ライブの告知をするみたいなお知らせツイートをするだけで、夢を追うはずだったバンドは静かに解散した。

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