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日々の中に「生きること」を見つける

私たちは、日々の目の前のことに翻弄され続けていく中で、
「これはこうだ」
「私はこうだ」
と心身がかたまっていきがちです。

物事に対するこの自己防衛反応って、全体から切り離して私という「個」を作り上げるという、何か大きいモノからの作用じゃないかなと思うんです。

日々の出来事の中で傷つきたくない自分、守りたい自分が無意識にもあらわれてきます。

「私を大切にしたい」という気持ちは分かります。
大切にされなかった経験から傷を負い、それを癒している最中の人もいるでしょう。

ただその気持ちが高じて何か他への依存心みたいなものだったり、浮ついてる様なもの、甘え、怯えなどが増えてくると、本当の成長の妨げ、眼の曇りをもたらすこともあると思います。

また、個は「体験する土台」であるのですが、大概がうぬぼれ、大いなる勘違い、迷いのもとになってるとも思うのです。

一つの心身である「私」を依代にして、この物質現象の世界を経験し、知り、学ぶということ。
それが「在る」というこの世界を理解する道の様なものではないかと思うのです。

感情や思考が「私」にこびりつくと執着、怒り、悲しみ、苦しみが深いキズになってしまい、ありのままに世界を観ること、知ることが出来ない。

この執着、怒り、悲しみ、苦しみなどが負の連鎖の様に「私」を作り上げ、魂を地に縛りつけてしまう。

物事への心の反応や、様々な出来事を中立で冷静な視点で観ることが出来てきたら、これらの感情を「経験」に変えていける気がします。

感情にベッタリな「翻弄され続ける私」から変わり始められる。

自分という、ヒトとしての生命を生きていける。

さらには、雲や水の流れ、太陽や星々の動き、地球の自転公転やモノのうつろいまでをも「私」としたならば、魂は広く大きく自由なんじゃないかと。

在るがままを観て、在るがままを生きること。

損得だけの小さなモノに左右されないということ。

デカい口叩きますが、そんな「大いなる渦」の様な流れの中に今私たちが居るということを思えば、その中でああだこうだと小細工に腐心して一喜一憂するより、流れることを味わう方が不安も少なく遥かに心地よく生きられると思います。

生きるとは、個として様々な個と出会い、個という自分の内側を体験し、全体を知ることなのではと思うのです。

その時に個が出来上がる作用を分かっていれば、全体から切り離されてつらい想いをすることも少なくなるのでは。

個から全体へ広がる道、生命。

「私(わたし)」は「渡し」なのかもしれません。

それがこの「在る」という世界の存在なのかもしれません。

そんな個である「わたし」を味わうようにして生きていければ素敵ですね。

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