見出し画像

Born to writalk on red thunder road②〜覚醒の赤い雷(かみなり)〜


確実に忘れさられているであろう
このシリーズ


書いた本人さえ
前回書いた内容は
はるか遠い記憶の彼方


あぁ…



OH!Yeah!(オー、イエー)



タワシも
思い出すのが
やっとこ、さん太郎w


アメリカ大陸、西・東(意味不明。笑)



前回(1回目)は、コチラ
「今生での使命が見つかった。カモの話」
(読み返すと、自分でも、あまりの読みにくさにビックリで再編集予定w)




へて、へて〜の


たどりつけた
今回2回目のお話。


さてはて、まあまあ
1回目のところを
くどめに、まとめると


現代日本社会。

東洋的な、
仏教、ヨガ、哲学
スピリチュアルなモノ、


そちら系の“教え“を
純粋に突き詰めていくと

なぜか、その在り方が
社会と分離する傾向のような


それが
気質とマッチしてか
現代日本人的には
あまりよくないイン方向への
傾向を強めるような


さて?


果たして
その方向は、


人として
人という動物・生物として
明るく開けていく方向、なのだろうか?


命を授かった生命(の響き)として
明るく開けていく方向なのだろうか?


すくなくとも
タワシが外を旅していた時に
おさんぽしながら出会えた多くの風景


大きな自然の中であったり
大きな時間であったり、
が、語ってくれた側(がわ)の


“教え“ は


もっと開放的で、
大きく、
明るく、
かろやかで


いつも絶えず
生命(と生命の響き)を
応援・寄り添い・励まし・後押ししてくれる…


ようなものだった、気がする、たしか…
(モノ忘れが激しく、うろ覚えw)



って話を
前回


は、
特にしてなかったように思うのですが(笑)


思いついたので、まとめてみました(苦笑)
(↑読み返すと、してましたw)



ということで
ここから
ちゃんと前回の続き

              ***



そう


前回タワシは
自分なりに瞑想いうてたアプローチの原点を思い出しまして


「そうか!思い出してみると、タワシが自分で瞑想、瞑想って言うてるアプローチ、その原点。方法論はインドベース。けど、精神的なベースはネイティブアメリカンや先住民系の民族の思想やったな〜」


ってことで

改めて
ネイティブ・マインド(北山耕平さん)を読み直し

(↓こちらの記事でも紹介)



「ん〜、やっぱり味わい深い〜」と


ひさびさ、
ネイティブ系の本も読みたくなり
休日にブックオフに行ってみることに。




タワシ流の本の選び方
(オススメの本の選び方)


名づけて“違和感・わいわい法”w


本屋で
「あれ、なんで?まったく違う場所に、同じ本が2冊ある。」や
「ん、なんで?このコーナーにこの本が?まったくジャンル違うのに。」


こんな違和感に出会えたら
まず、とにかくチラッと読んでみます。



経験上、その時の自分に
ピタッとハマる本に出会える可能性が
メチャクチャ高いから



そんな本は
なぜか「おっ?!」と
いつもとは違う視点・角度の気づきだったり
斬新で日頃は思いつかないアイデアを与えてくれたり
が多い、というより、ほぼ1000%

いつからかわからないけど、
たぶん30年来の習慣。


その磨き抜かれた
タワシ統計から導かれた
タワシ印のたしかなアプローチ


旅での例ですと

その昔
インドのダラムサラの日本食レストランで
ずらーっとインドの旅の本が並んでいた中に

なぜかぽつんと一冊、日本語の本があって…

そうして出会えた
「整体入門(野口晴哉さん)(本のリンク)」も、
すっごい衝撃だったし



そ、そ
さとうみつろうさんの
かみさまとのおしゃべり(本のリンク)」だったりも。


気になる、オモシロそう、
けど、なんかずっと敬遠。(ひねくれでw)
でしたが

沖縄の宿で、
本棚で マンガだけズラーッと並ぶ中で
1冊だけ混じっていた本。ぽこっと。


それが
『かみさまとのおしゃべり』 で。


「たしか、さとうさんは、沖縄の石垣島出身だったよな〜、
ちょうど沖縄の宿での出会いだし、このタイミングで読んどけ、かな〜」
と読んでみると
めちゃオモシロかったしw


他にもたくさん。


そんな出会いのエピソードのカケラたちが
集まり、手を取り、つながってくれるに従い
確信度合が高まり

習慣に変わりと
自然に続く
そのうちに


どんどん、んどんど
雪だるま式に
アンテナの感度が上がり


そうすると、
ついには…


何か考え事があると
「そろそろ、きそうじゃない?」や
「ん?なんか呼ばれたような?」と
遠くの本(屋)から声が聞こえる、みたいな感覚が鳴り



本屋に出かけた時は、


「あ、そ、そ、これこれ、たぶん、これのことやな」と
本が呼ぶように、手のひらに吸い込まれるような…



読んだら“やっぱりか〜”と
ヒットするようになった最近、派のため


今回も本屋に寄ることにしてみると


こんな本を
1冊見つけて


大好きなエリコ・ロウさん(前回のパワーアニマル話の著者)の未読本


「ん〜、ということは、もしかして〜??」と
別のコーナーなどを探してみると


やーっぱり〜。
同じ本が、もう1冊。
しかも全くジャンルの違う場所に置かれてあり

アメリカ・インディアンの知恵(エリコ・ロウさん)

「お〜!やっぱ、これか〜!」と
手にして読み始めたんです。

              ***


と、そこで久々に再会


「ヘヨカ」というコトバと、そのお話。


心を奪われるタワシ。

             


ヘヨカとは…
ネイティブアメリカンのメディスンマンのこと



タワシなりに噛み砕いて上手でステキな文章にしてみたかったのですが今回とても残念で悔しいことに、こんなにもステキでわかりやすい文章が書けませんでしたので、一部がっつり引用させてもらいますw ごめんなさい
(めちゃくちゃ良い本なんで、買って全部読むことをオヌヌメ)



ヘヨカとは(ネイティブアメリカン部族内の役割の存在)■

(P23〜)
ネイティブアメリカンのラコタ族には
笑いを届けることを専門職とする“ヘヨカ”という存在がいる。

ヘヨカとは“聖なる道化師”
と言っても単なるコメディアンではない。

普段の日常生活や
お祭り、儀式、伝統行事で
村人を笑わせつつ、気づきのきっかけを与える
そんな存在が“ヘヨカ“だ。

雷鳴“や“夢のお告げ“で
その天命を知らされた人
生涯の責務として受け入れる聖職で
メディスンマンの一種と見なされてきた。

ヘヨカは「あまのじゃく」とも言われる。
常に社会の常識の逆を行くから“だ。

ヘヨカ
モカシン靴(ネイティブアメリカンのくつ)を後ろ前に履き、
前に進む時には、後ずさりして歩き

夏には“寒い寒い“と毛布にくるまり、
冬には“暑い暑い“と服をぬぎ始める

小さな水たまりを大海のように恐れ、
一方、戦になると敵の大軍に 嬉々として突進していく。

長老の演説に茶々を入れ、厳粛な儀式の場でおふざけを見せ、広場で猥褻な行為までしてみせる

ところが
一般の人々の思惑や行動、常識に逆行した
ヘヨカのふるまい、奇怪な行動のすべてには、
実は笑いを誘うだけではない深遠な意味が含まれていると言う


■レイム・ディアは語る■
20世紀を支えた名メディスンマンとして知られたレイム・ディアは、自伝の中でヘヨカの思い出を、こう語っている。

「馬鹿げたふるまいのへヨカは、実は神聖な儀式を執り行なっているのだ」

ヘヨカの言動を見て衝動的に笑ってしまえば、緊張は解け、頭を一杯にしていた考えや自分を虜にしていた感情から開放される。笑いがおさまった後で自分の置かれた状況を見直せば、新たな視点も生まれる。なぜ可笑しかったのかに合点できれば、大切な教えを授かったことに気づく、というわけなのだ。」

「ヘヨカとは神聖で、可笑しく、パワフルで、馬鹿げていて、恥ずべ存在で、しかも洞察力と先見の明で人と世を導いているのだ」


■チャールズ・ファーストホース(ラコタ族の現役へヨカ)より■
ラコタ族の現役へヨカ、チャールズ・ファーストホースは説明する。

「雨乞いや豊作を祈る季節のダンスの集いでも、まず広場にヘヨカが登場して、聴衆をからかったり、人の素振りを物マネして人々を笑わせるが、それも単なる暇つぶしや娯楽の提供だけにとどまらない。それ自体がヘヨカ・メディスンの清めの儀式なのだ」

「人は意図せずとも、内なる想い、心配事、嫉妬、不安、怒り、猜疑心などを様々に抱えて、聖なる催事の場にやってくる。我々ヘヨカの狙いは、そうした人の思念のネガティブな工ルギーで聖域や人々の精神が汚されないよう、笑いで人々の心身を清め、同時に、聖なる時と場への畏敬を取り戻させることなのだ」

「ヘヨカは、パワフルなシャーマンでありメディスンマンだ。その神通力で人の心を見通しては、その人の穢れを清め、歪みを正し、人と社会を健全でバランスのとれた道に導く存在なのだ。」



■(再び)レイム・ディア■
レイム・ディアによれば、ヘヨカは現実の世界のみならず、物語の世界でも、その間抜けぶりで人々を笑わせてきたと言う

「インディアンは笑うことが好きなのだ。我々のようにすべてを失い、多すぎる死や哀しみ、費困に耐えて生き続けなければならなかった民族にとって、笑いこそは本当に貴重なギフトだった」

「白人がもたらした病いで仲間がバタバタと蠅のように死んでいった時、長らく住んでいた大切な土地から追い払われた時、政府からの支給が届かず飢えた時、そんなときにヘヨカの振る舞いを眺めることは天の恵みだった。」

「笑いの精神がなかったら、インディアンはこれまで生き抜いてはこられなかった」


■そして、ヘヨカの使命、の章■

「私たちが住む宇宙とは、突き詰めれば、すべてエネルギーで出来ていて、東西南北、老若男女、暑さ寒さ、といったように、対抗するエネルギーが調和とバランスを保ちつつ進化を続けている。そして、その調和やバランスが崩れると人は病み、社会には問題環境にもダメージが生じることになる」


「天の創造主から授けられたヘヨカの使命とは、この世に生じた不調和やアンバランスを大げさに形にして見せて、調和とバランスの尊さ、必要性を人々に再認識させること(注:HSPに通ず、私見)

失われがちな調和とバランスを回復、維持させることによって、人、動物、植物、地球の生命界全体を健全に進化させていくことと言われているのだ」

「たとえばヘヨカが真夏に厚着で毛布にくるまり震えてみせ、真冬に裸で汗をかいてみせるのもそのためだ。人が暑い暑いとうだり、何ごとにもやる気を無くしがちな夏には、凍えて夏の到来を待ちかねた冬の日を思い起こさせ、人が寒風を恐れ外に出るのを嫌がる冬には、暑さを憂えた夏を思い起こさせる。

春夏秋冬の四季の巡りがあるからこそ、ゆたかな自然の恵みが得られるのであり、それを身に沁み込ませれば季節の移ろいへの感謝も新たになり、天候の厳しさへの不満もおさまるものなのだ。」

ヘヨカが厳粛な儀式でおかしな行動を見せ、静粛な面持ちでいた参加者を思わず吹き出させるのも、また一般の人には決して口をはさむことが許されない長老の発言に茶々を入れたり揚げ足をとるのも、おもしろ半分ではなく、ヘヨカにとっては大切な職務だ。

タブー破りのそうしたヘヨカの言動が、社会がきまじめになりすぎたり、大衆が視野を狭めて間違った方向に猪突猛進しないためのブレーキとなってきたのだ。

聖なる儀式も、緊張し過ぎて頭や心の柔軟性を失った状態で参加したのでは、その価値を十分に噛みしめることはできない。

尊敬すべき長老やチーフの言動へのヘヨカの横やりも、部族の長たるものが唯我独尊になりすぎるのを避ける役に立つ。

また、演説の途中で茶々が入ることで、ただ漫然と演説を聞き流していた人も、演説の真意、その是非を考え直すことになる。

自分たちがリーダーと慕う人も人間であることを大衆が忘れなければ、特定の人を教祖として盲目的に従ったり、教義やイデオロギーに凝り固まった専制国家やカルト集団にならずにすむというわけだ。

アメリカ・インディアンが世界のどんな民族にも先がけて、誰もが自由で平等な民主主義社会を実現できた舞台裏にも、こうしたへヨカの活躍があったのだ(議会政治の元はネイティブアメリカンの部族の風習)

へヨカは天の創造主と地上の人間の間をとりもつ超人的存在。必要とあれば部族のチーフ首長を解任する権限さえ持つのだ。それほどに重要で力ある存在である。


■(おまけ)ネイティブアメリカンの語る“魂の本意“とは■
ネイティブ・アメリカン・インディアンの間では、魂の本意(魂の真の望み)が、このように考えられていると言う

魂の本意とは、
自分に与えられた
天命にふさわしい
自分なりの人生を見出すこと

そして
その人生をまっとうすることによって
精神性の浄化、成長を果たすこと。

そして、ラコタ族では
昔から、さらに、こう言われていると言う

「天と通じ、雷神から人と世を癒す力を与えられながら、それを社会の役に立たせることを怠ったヘヨカは、雷に打たれて、命を落とす」と信じられている。


「ふ〜…」


読み終えた
タワシは、深く思いました。


「そうか〜…
ヘヨカって、要するに…ひねくれもののことなんだな!

ん〜…
だったら、もしタワシが、ヘヨカだったら…
全然、変わらなくていいってことじゃない?!w

じゃあ…
このままでいいってことなんじゃない?!


あー、ヘヨカ… よかな〜。
ヘヨカだったら、よかった、かもしれないな〜


でも、残念なことに
タワシは“ヘヨカさん!”って言われたことも
雷に呼ばれたこともないしな〜…

まあスペシャルなチカラはないから、
ヘヨカになれたところでビミョーだけどな。

しかも、まあまあ大変そうやしw」
(本を1冊読んだ感想。小学生以下。笑)


でもなんか、すっごい思ったんですね


タワシは
社会のリズムもわかんないし


そぐわないような
ひねくれたことや
そのせいでか失敗ばっかしちゃったりしてて


しかも
時々というか、しょうちゅう
自分が何をがんばってやってんのか
自分、何したいん?って
自分でもよくわからなくなる時もあったりして


そんな時、ここにいていいのかな、
ここにいちゃいけないんじゃないかな?
居場所なんてあるのかな、はて?


なんて思っちゃったりすることも、
よくあった気がするんだけど



それは潜在的に、どっか
ヘヨカ的な部分があってか
求めてか


タワシなりに、
一生懸命ヘヨカって役割の何かを
がんばろうとしてたってことだったのかなって


もしそうだったら
すっごい助かるんだけどな
救われるように思えるんだけどなって、
思えてしまって。

で、こうも思ったんです。


もし自分がヘヨカのようになれていけるとしたら…


そんな方向を求めていくことで
自分の中に眠ってくれているかも知れない
内なるヘヨカに、少しでもつながることができたならば…

そうすれば
その瞬間に


これまでのすべてが
今までの自分のすべてが


すべて逆に
オセロのようにくるっとひっくり返り


これまでのすべてが
今ままでの自分のすべてを


全部をイエスってなれる、
のカモ、しれないな〜って(グワァ〜。カモさんの真似)



その時、
見える風景は…

「やっぱ全然、自分、変わんなくてよかったんだ」
「だったら、これからもこのまんまの自分で歩み続けてて、いいんじゃない?」みたいな



それこそが
明るくきらめく先の、
真の風景


その瞬間が


変わらなくていい、こと 
へと、


変わること。


すべてを…
乗り越えた、
その先の風景へ


そう…
だから…


タワシの、
そして
みなさまの


内なるヘヨカ!
眠れるヘヨカへ!



雷鳴よ、、、
とどろけ!


ということで
今回は以上です。


長文失礼しました。
お読みいただき、ありがとうございます。


でわでわ、
本日も
みなさま


かろやかに
ステキなお時間を過ごされます、
よによに


それでわ、わでれそ〜


エイエイオー
ヘイヘイホー


フレフレ、レフレフ~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?