四日市における戦争と死者に関わる碑・施設の諸相 慰霊・追悼・記念(1878~2011) ⑤
5 昭和の戦争と死者
昭和の戦争と死者に関わる碑は、そのほとんどが戦後に建立されたものである。昭和の戦争死者が記された碑の中には、日清戦争や日露戦争の紀念碑など、すでに建立されていたものに追記したと考えられるものもある。こうした追記がいつおこなわれたかについてははっきりしないものが多いものの、戦後のことと推測される。
戦前から続く共同墓地のほとんどで、戦争で亡くなった人の墓が残されており、戦後、合同で墓を建立し、戦死者の墓であることを表示したり、墓に並んで「南無阿弥陀仏」などの碑を建立した地域もある。これらの墓碑等が、戦死者の追悼、顕彰、記憶にどのような役割を担っているのかについても重要であるが、今回の調査では、墓地の個人の墓については、戦死したことを意図的に示していると認められるものについても、基本的には墓であり、個人が調査で介入するのは難しいと考え取り上げなかった。墓地における戦死者の墓碑については、それぞれ地域の人びとによって大切にされ引き継がれ、しかるべく検証されることを願っている。
(1)四日市と忠霊塔計画
昭和十年代の全国的な動向として注目されるのは、納骨堂としての忠霊塔の建立である。日中戦争の長期化で戦死者が増大し、各地で忠霊塔建設運動が広がった。1939年(昭和14)、財団法人大日本忠霊顕彰会が設立され、各市町村に原則として一基の建立をめざす忠霊塔建設運動が始まった。この忠霊塔建設には、当初より陸軍と仏教界が積極的に関わって進められたが、一方で、靖国神社―護国神社によって英霊奉斎を進める神道関係者からは強い懸念が示されたという。大日本忠霊顕彰会の発表によると、1942年10月1日現在、既設124基、近々完成予定140基、建設予定1500市町村となっていた【註38】。
四日市では、1943年(昭和18)に、忠霊塔建設計画が報じられた。報道によると、羽津山を第一候補として、高さ22メートル、工費10万円で建設することで話がすすめられていたという【註39】。
しかし、戦争が激化していくこの時期、四日市羽津山の忠霊塔の建設計画は実行されることはなかったと考えられる。実際全国的にも、1943年10月30日陸軍の「戦没者墓碑建設に関する件」によって、忠霊塔については「事実上その建設はストップ」し、「忠霊塔建設運動は失速した」と指摘されている【註40】。
(2)戦争と死者の戦後
敗戦後、戦争に関わる碑の扱いについては、1946年11月1日に、「公葬等について」【註41】とする内務文部次官通達によって指示された。「忠霊塔・忠魂碑その他戦没者のための記念碑・銅像等の建設・並びに軍国主義者又は極端な国家主義者のためにそれらを建設することは、今後一切行はないこと。現在建設中のものについては、直ちにその工事を中止すること。」とされ、すでに現存するもののうち、「学校及びその構内に存在するものは、これを撤去すること。」「公共の建造物及びその構内又は公共用地に存在するもので、明白に軍国主義的又は極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは、これを撤去すること。」としている。その上で、「戦没者等の遺族が私の記念碑・墓石等を建立することを禁止する趣旨ではない。」とされた。
その後、1951年には、戦没者の葬祭などについて、新たな通達が出された。「民主主義諸制度の確立による国内情勢の推移及び多数遺族の心情」を考慮して、慰霊祭、葬儀への知事、市町村長その他の公務員の列席や、地方公共団体による納骨施設の建設などが認められるようになった。そして「信教の自由を尊重すること、特定の宗教に公の支援を与えて政教分離の方針に反する結果とならないこと、軍国主義的及び極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹にわたらないこと、並びに政治的運動に利用されないこと」が強調された【註42】。
(3)四日市と戦後
戦後建立された碑は多く、対象、設置年代、設置者、様式が多様化している。地域に残る慰霊碑等の把握や管理については、遺族会が一定の役割を担っているが、実際には、遺族会作成の一覧に掲載されず、遺族会が関与していないと考えられる碑等も少なくない。
戦後、最も早いものは、1947年(昭和22)、石原産業の捕虜収容所で収容中に亡くなった米軍とオランダ軍の兵士のために建立された『平和と自由のために第二次世界大戦で戦い、かつ死んだ人々に捧ぐ』と刻まれた碑である。
1948年 伊坂町
地域の戦死者の碑で戦後最も早い時期に建立されたのは、1948年(昭和23)年で伊坂町の『報恩碑』である。この時期には、『報恩碑』『倶會一處』『戦没者之碑』『南無阿弥陀佛』といった碑銘が並ぶ中で、1950年、上海老町の共同墓地に建立された碑には『英霊之碑』と刻まれている。しかし、その形状は碑というよりも、むしろ墓石そのものである。三重県では、1946年12月13日、三重県警察部長から県内の各警察署長に対し「忠霊塔忠魂碑等の措置について」【註43】とする通達が発せられた。この中で、墓石については「遺族が合同して墓石を建立しようとする場合、その構造が華美壮大となっては戦争礼讃の弊を生じ易いので、簡素を旨とするよう指導すること」「戦没軍人に対して遺族の新設する墓標は、死者の戦功を顕彰せざる範囲内に於て、陸海軍人、官等級、氏名、戦死場所を刻ましむるも支障ない」と指摘されており、占領下においても、戦死者に対する慰霊・追悼が続けられていたことがうかがわれる。
1950年建立 上海老町共同墓地
サンフランシスコ平和条約が発効した1952年(昭和27)以降に、新たにつくられた碑で注目されるのは、『平和之礎』碑で、確認できるものだけでも10地区で建立されている。「平和之礎」という表現は共通しているものの、建立者、建立時期、碑の大きさやかたちはさまざまである。そのため、特定の建設運動があったというよりは、それぞれの地域の人びとの創意で、自分たちの碑を建設したものと思われる。
四日市市域で最も古い『平和之礎』碑は、1953年4月に三重村と昌栄町に建立された。三重村の『平和之礎』碑は三重小学校の校庭脇に建立され、同村の「大東亜戦戦没者」の名前が記されている。昌栄町に建立された碑は平成になってまもなく撤去され現在は残っていない。昌栄町の周辺住民からの聞き取りによると、個人の敷地内に建立された碑が老朽化して倒壊が懸念されるようになり、公的な移転先が検討されたが確保できず撤去されたという。
1953年建立 三重小学校校庭脇
1957年建立 神前小学校横
戦没者を平和の礎とする考え方は早い時期からみられるが、「平和之礎」という碑が、この時期に増加し始めた背景には、全国戦没者追悼式における吉田茂の式辞からの影響があるのではないかと考えられる。1952年5月2日、東京の新宿御苑で、初めて政府主催でおこなわれた全国戦没者追悼式において、吉田は、「戦争のため祖国に殉ぜられた各位は、身をもって尊い平和の礎となり、民主日本の成長発展をのぞみ見らるるものと信じてうたがいませぬ。」と述べたという【註44】。
戦争、敗戦、占領の時代を抜け出て、独立と平和を得たと感じた時、親しい人々の犠牲を意味あるものとする「平和の礎」という言葉に、遺族の多くが惹きつけられたのであろう。
(中島久恵)
⑤註38―44
【註38】 大原康男『忠魂碑の研究』暁書房 1984年
【註39】 『伊勢新聞』昭和18年2月2日付
【註40】 川島智生「仮忠霊堂の建築位相」『陸軍墓地がかたる日本の戦争』ミネルヴァ書房 2006年
また、大原康男『忠魂碑の研究』によると、「戦歿者墓碑建設指導ニ関スル件」(陸亜普第一八六四号)で「国家総力ヲ挙ゲテ戦力増強生産拡充ニ結集スベキ現時局ニアリテハ墓碑建設ニ使用スル資材戦力ハ徹底的ニ節減スル」とされたという。
【註41】 文部科学省HP 2019年11月閲覧
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19461101001/t19461101001.html
【註42】 文宗第51号・発総第476号 昭和26年9月10日 文部次官・引揚援護庁次長通達 戦没者の葬祭などについて 文部科学省HP
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19510910001/t19510910001.html
【註43】『四日市市史 第14巻 史料編現代Ⅰ』 四日市市 1996年
【註44】 『通信』第35号 1952年5月5日(田中伸尚他『遺族と戦後』岩波新書)
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