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『シャルギー』井筒俊彦氏のドキュメンタリー映画(日本の歴史)

 井筒俊彦氏を紹介するwikiでは「文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者」とあるが、イスラム教徒という属性はない。


 今回は2018年7月24日に上演された井筒俊彦氏のドキュメンタリー映画「東洋人」(シャルギー)を紹介するものだ。 上演が終わり、会場のイラン人から監督のマスウード・ターヘリー氏への質問で「井筒俊彦氏が自らイスラム教徒だ」と語った事実はないか、というものがあった。(イランの人々の中では井筒俊彦氏がイスラム教徒であって欲しいと思われている)

 しかし、この映画で出演する12カ国以上の著名な思想家102人とのインタビューでは、井筒俊彦氏がイスラム教徒だった、という事実はなく、あくまでイスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者と言われていた。 井筒俊彦さんのドキュメンタリー映画を観るにあたって、井筒俊彦さんの業績を言語学者としての側面とイスラームを含めた東洋哲学の研究家という側面からどのように描かれているのか仮説を持つことにした。

 なぜなら、同じ哲学者を描いた映画「ハンナ・アーレント」を観たとき、ハンナ・アーレントの哲学に対して自分なりの意見や仮説を持っていなかったので、映画としては単調だったからだ。

 以下は、映画を観る前に立てた3つの仮説。 「我思う故に我あり」でなく、イスラームのスーフィーが神的属性を得た後のペルソナ転換から導かれる「我はそれなり」、という考えの違いが「神のコトバ――より正確には、コトバである神」とまで、井筒さんに言わしめたのではないか(言語学者の側面)、という「仮説1」。

 さらに「我はそれなり」はインド哲学のブラフマンとアートマンの合一と同じことであり、ユダヤ神秘主義のカバラの集団チューニングで得られるPrivilege(自分が何のために生まれてきたかをコトバで知ることができる権利)とも同じことである。これらの神秘主義が結果的に「神のコトバ――より正確には、コトバである神」につながるため、井筒さんは東洋西洋の神秘主義を横断的に学んだのではないか(東洋哲学者である側面)、というもうひとつの「仮説2」。

 そして最後の「仮説3」、井筒俊彦氏は現代の空海である。空海曰く「五大に皆響あり、十界に言語を具す」、空海の言う言葉=真言。 今でも空海が中国の農民に親しまれているドキュメンタリーを観たことがあるが、同じように井筒俊彦氏はイランの人たちにこれだけ尊敬され親しまれているのは驚きであると同時に、同じ日本人として嬉しくなる。そういう意味では、井筒俊彦さんは現代の空海だ、という私の「仮説3」は、思想は別にして著名な思想家102人の語る井筒俊彦像で納得できる。

 「仮説1、2」に関しては、この映画ではスーフィズムやインド哲学そのものに触れることが少ししかなく、それを実証することはできないが、井筒俊彦氏の「『コーラン』を読む」のP38に以下の解説がある。

 我々は言語学で、書かれたコトバを軽視するように教えられてきました。書かれたコトバでなくて、喋られたコトバーーそれこそ本当の意味での言語なのだ、と。・・・考えてみれば、当然のことですが、書かれたコトバは、喋られたコトバとはぜんぜん違った、それ自体の存在をもっているということがわかってきた。それがエクリチュール論です。・・・エクリチュールとしての『コーラン』は、神がムハンマドに直接語しかけた原初の具体的発話行為の場から一段離れたところで、イスラームの聖典として成立するのです。・・・つまり、もとの発話的状況から切り離されているのですから、誰でもそれを自由に解釈できます。

『コーラン』を読む(岩波現代文庫)

 ここにある「もとの発話的状況」を井筒俊彦さんの『マホメット』のP88で以下のように解説している。

 マホメット自身が天使ガブリエルの姿をまざまざと見たと物語ることになっているが、これはずっと後日の反省の結果得られた解釈なので、はじめのうちは彼はそれを『聖霊』と呼んだ。しかし、それよりもっと前、つまり体験したばかりのときは彼は自分がてっきり何か悪霊に憑かれたものと思った。・・・気の弱い彼はその後もしばらくの間は、そういう体験があるたびに全身悪寒でがたがた震えながら妻のところへ駈け込んで来るのだった。・・・しかし冷静で大胆な妻ハディージァは、これは悪霊の仕業ではなく、真に神の霊感であることを疑わなかった。誰よりも先に彼女が入信した。
(この発話的状況はメッカ啓示であり、メディナ啓示ではおそらくこの状態ではない)

『マホメット』(講談社学術文庫)

 ここで、ムハンマドがスーフィーにおけるペルソナ転換、インド哲学におけるブラフマンとアートマンの合一を起こしたとは思えない、あくまでムハンマドは「市場を歩き、物を食う」普通の人間であり、セム族的解釈においては強制的に「預言者」として神に選ばれた、ということになる。

 この映画では、井筒俊彦氏が「古代は神が中心の関係性であり、現代は人が中心の関係性である」ことを時系列で研究したとあったが、現代物理学における人間原理と一致しているのも面白いことだ。

 したがって、「仮説1、2」に関しては、今後の課題ということになるが、エクリチュールから「神のコトバ――より正確には、コトバである神」という発想になることが、この文書を書くことで気づくことができた。

 さて、「仮説1、2、3」の話はこれくらいにして、『シャルギー』という映画で発見した未来に関する重要なことをまとめておく。

 この映画ではイラン人監督であるマスウード・ターヘリー氏が天才言語学者としての大川周明と井筒俊彦の違いを前半後半でうまくビルトインしていた。

 大川周明という人は民間人で唯一A級戦犯となり、東京裁判で東条英機の頭を何度も叩く人だが、もともとは言語学者だ。なぜA級戦犯となったかというと、大川周明は満鉄調査部や軍部とも関係を継続しつつ、大東亜共栄圏、大アジア主義というイデオローギーの創始者だったからだ。

 大川周明の植民地として制服する大アジア主義の中にはイランなどのイスラームの国々も含まれていた。オランダからアラビア語の基礎テキストの「イスラミカ」、イスラム研究の全文献の「アラビカ」のふたつの叢書を大金で買い求めた。それらを東亜経済調査局の図書室に入れたので、その整理を担当した井筒俊彦氏はこれらの文献を自由に利用することによって研究の基礎を築くことができた、と言われている。
(井筒俊彦さんは戦時中、東亜経済調査局にアラビア語整理という名目でアルバイトに行っており、そこで大川周明に出会った)。

 大川周明の大アジア主義は大東亜共栄圏として満州国となり、太平洋戦争に突入したのだが、東京裁判では狂人(諸説あるが)として裁かれることなく入院した病院で、『コーラン』の翻訳に着手し、1949年末についに翻訳は完了、翌1950年岩崎書店から『古蘭』として出版された。
 これはアラビア語原典からの翻訳ではなく、英語だけでなく、ドイツ語、フランス語、中国語など10種あまりの翻訳を参照した日本語訳とされている。 大川周明は言語学者(戦前に、タイ語、マレー語、ヒンディー語、トルコ語、ペルシャ語、アフガニスタン語、アラビア語といったアジアの言語のエキスパートを育成しようとした)、イスラーム学者としても優秀な人だったのだろうが、政治に興味があったのだろう。

 大川周明の『古蘭』は、1958年に井筒俊彦氏のアラビア語の原典からの翻訳『コーラン』が出現するまで、コーランの愛読者から尊重されていたそうだ。

 井筒俊彦氏はイスラム哲学(とりわけイランのスーフィズム)を軸としながら、古代ギリシアやキリスト教の神秘思想、ユダヤのカバラ思想、インドのヴェーダーンタ哲学、大乗仏教、老壮思想、さらには日本的禅まで広く「東洋哲学」を見渡せる「もの」を創造したかったのだろう。

 イランの人たちは、井筒俊彦氏を自分たちの文化的価値観や哲学の本質を中立公平にグローバルに伝えることができる人、と認識しているが、それは米国などで行われる経済制裁を文化的な理解が進むことで和らげることができるのではないか、という期待が込められている。

 西洋哲学はギリシャ哲学とユダヤーキリスト教を基盤にしており、そして西洋哲学は政治的にもEUとして結実している。大川周明は西洋と対抗する意味でもアジアを政治的に統合するイデオローグだったのだが、それは実現することはなかった。そしてこれからもアジアがEUのように統合することは難しいだろう。

 しかし、井筒俊彦氏が創造した東洋哲学を、西洋人(特にアメリカ)が学ぶことは、H・G・ガダマーの語る『地平融合』につながる、とイランの人たちは考えていることが、このドキュメンタリー映画で知ることができた。だから、タイトルが「東洋人」(シャルギー)なのだろう。

 二つのまったく違った伝統的文化価値体系の激突によって惹き起こされる文化的危機。そのダイナミックな緊張感の中で、対立する二つの文化(あるいはその一方)は初めて己を他の枠組の目で批判的に見ることを学ぶのです。そこに思いもかけなかったような視座が生れ、新しい知的地平の展望が開け、それによって自己を超え、相手を超え、さらには自己と相手との対立をも超えて、より高い次元に跳出することも可能になってくる。H・G・ガダマーの語る『地平融合』の現成です。

 話を現代の世界情勢に戻す。
 キリスト教国におけるユダヤ人の迫害は、ある意味イスラエルの建国により収斂することになった。そして、それによりパレスチナの地を追われたパレスチナ人の問題は、起業家精神とテクノロジーで解決する方向に向いていく、考えられる。(日本の役割は重要)

 しかし、イスラエルとイラン、サウジアラビアとイランの対立の問題は、アメリカとロシア・中国を巻き込む大きな問題として依然として横たわっている。この問題は政治的な解決で収斂をすることは難しい。この『シャルギー』という映画は、その解決のひとつの手段が、井筒俊彦氏が創造した(東洋と西洋が響きあう)東洋哲学を西洋に伝えることだと主張している。

 皮肉にも、旧約聖書はペルシャ帝国がユダヤ人を統治していたころ、ペルシャ帝国の高級官僚でユダヤ人司祭(学者)だったエズラがユダヤ民族の信じるものをまとめよ、と命を受けて編纂したものだ。
(現在のイランが旧約聖書の生みの親で、キリスト教におけるローマ帝国の役割と同じ)
 このエズラの役割を学者して自発的に果たしたのが井筒俊彦氏なのだろう。

 102人がインタビューを通じて井筒俊彦さんを語ることでひとつのストーリーを作り上げる映画手法も面白く、多くの学者に観てもらいたい映画だ。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。