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『玉突きのようなパレスチナとラビン氏』(イスラエル)

 『サバティカルとNew shores of the Dead Sea』で紹介した電子書籍『あたらしい死海のほとり』で、バルフォア宣言の原文の曖昧さを紹介した。

 シオニズム運動を起こしたヘルツェルは、1896年シオニズム運動のさきがけをなす 著作『ユダヤ人国家(英語版)』を出版した。ヘルツェルが亡くなる1年前(1903年)、ロシアのユダヤ人迫害がますます悪化していく状況の中、イギリスは英国領東アフリカのウガンダ(Uganda)にユダヤ入植地を設ける案(英領ウガンダ計画)をシオニスト会議に提案した。シオニスト会議(1903)でイギリスの打診は激しい議論となり、結局、次のシオニスト会議(1905)で、ウガンダはシオンではないと断った。もしこの案が通っていれば、ユダヤ人の一部は現在のウガンダに住んでいたかも知れない。
 パレスチナは、16世紀以来この地を治めていたオスマン帝国から、第一次世界大戦後にイギリスの委任統治下に入った領土だ。ヘルツェルは英領ウガンダ計画の心労も重なり、1904年に亡くなったが、彼の志はワイツマン、ベングリオンなどに引き継がれ、イスラエルは1948年5月14日にパレスチナの地に建国された。
 オスマン帝国領内にアラブ人国家建設を支持したフセイン・マクマホン協定(1915年)と、 イギリス外相バルフォアがシオニストを支援するロンドンのロス チャイルド卿に送ったバルフォア宣言(1917年)が、イギリスの二枚舌外交と言われる。バルフォア宣言の原文に『a national home』とあるが、パレスチナ側には『the』でなく『a』となっているので確定した場所ではないと弁明でき、『home』が『state』なので国家ではないと弁明できるようになっている。逆にシオニストはユダヤ人国家樹立と受け取ることができる。

Foreign Office,
November 2nd, 1917.
Dear Lord Rothschild,

 I have much pleasure in conveying to you, on behalf of His Majesty's Government, the following declaration of sympathy with Jewish Zionist aspirations which has been submitted to, and approved by, the Cabinet.
 "His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object, it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine, or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country".
 I should be grateful if you would bring this declaration to the knowledge of the Zionist Federation.

Yours sincerely,
Arthur James Balfour

 そして、イスラエルが建国された1948年5月14日の翌日にパレスチナに住むアラブ人は難民となった。パレスチナの地を追われたアラブ人はパレスチナ人と呼ばれ、彼らは5月15日を『NAKBA Day』という。『NAKBA』はアラビア語で『大惨事』を意味し、イスラエルの建国は440万人(2006年調査)のパレスチナ難民を生んだ。

 基本的にヨーロッパやロシアでのユダヤ人迫害がなければ、イスラエルは建国されず、NAKBAはなかった訳だが、イギリスの二枚舌、三枚舌外交(サイクス・ピコ協定を含む)と、さらにはバルフォア宣言などから、パレスチナの地に住む多くのアラブ人は難民となり、ヨルダン川を渡り死海の対岸のヨルダンに移った。

 さらに、1967年の6日戦争(イスラエルとエジプト、ヨルダン、シリアの戦い)でヨルダンは東エルサレムをイスラエル奪われ、またもやそこに住むたくさんのアラブ人がヨルダン川を渡ることになり、ヨルダンの人口の70%はパレスチナ難民とその子孫になってしまった。

1)ヨーロッパとロシアでのユダヤ人の迫害
2)イスラエル建国 & NAKBA
3)パレスチナ難民発生
4)ヨルダンの人口の70%はパレスチナ難民とその子孫に

 まるで玉突きにような連鎖が起き、結果的に大量の難民が生まれてしまった。そして、最近のシリアの情勢からもレバノンやヨルダンには大量の難民が流れ込んでいる。

 さて、ここで話はパレスチナからイスラエルへ移る。

 私はイスラエルとのビジネス経験で深く感動したことがある。それは、当時イスラエルの首相だったイツハク・ラビン氏(6日戦争のイスラエル国防軍の参謀総長)が、1994年12月14日にノルウェーから日本に立ち寄った際に歓迎パーティーが経団連で行われ、そこに参加したときのことだ。

 日本に立ち寄ったラビンさんは、その席上で、イスラエルは経済的に自立している。日本はパレスチナの自立支援をして欲しいと語った。オスロ合意以前のPLO(PFLP)はハイジャックを行うなどのテロ組織で、イスラエルとは激しく敵対していた。元軍人であるラビンさんは、ノルウェーから日本に立ち寄り、以前の敵に対しての支援を懇願したので ある。当時の情勢を理解している人は、感動し涙していた。当時の日本経団連の会長は豊田章一郎さんで、ヘブライ語で乾杯を意味する『レハイム』で乾杯の音頭をとった。ちなみに『レハイム』の『レ』 は『ために』、『ハイム』は『命』意味する。しかし、ラビンさんは来日した翌年の1995年11月4日にテルアビブの平和集会で、至近距離より銃撃され亡くなった。  『あたらしい死海のほとり』より

 以前のPLOは、今で言うアルカイダやダーイッシュ(IS)のようなものなので、ラビン氏のメッセージは強烈で、それ以来、このメッセージは私の心に残ってしまった。

 たまにパレスチナ料理(=イスラエル料理)を食べたくなり、江古田のシャマイムや十条のBisanに立ち寄ると、ラビン氏やアラファト氏の写真が飾られていて、その時のメッセージと状況を鮮明に思い出してしまう。
 しかも、当時60代、70代の参加した経団連のメンバーは今は現役を退き、ラビン氏がわざわざ日本に立ち寄り伝えたこのメッセージを聴いた人は、ほとんどいなくなってしまった。

 今の私にできることは、たまにパレスチナ料理を食べたり、パレスチナ産オリーブオイル(パンとのマリアージュは最高)をネットで購入したり、こんなコンテンツを書くことぐらいしかできないが、これがTiny Delightsであることも確だ。

*こうして歴史から考察すると、ホロコーストが終わったとは言えない。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。