『夜と霧』生きることに何かを期待するのではなく、生きることが、私たちから何を期待しているかが問題(多くの人に役立つを第一に)
ロゴセラピーの発案者でアドラーに破門になったフランクルのアウシュビッツ体験記が「夜と霧」だ。100 de 名著は観たが、実際の本をはじめて読んでみた。最初に注意しなければならないのは、フランクルはアメリカに亡命するチャンスがあり、アウシュヴィッツを避けることができたにも関わらず、両親と同じ道を歩むことを受け入れることでアウシュビッツ強制収容所に送られることになったということだ。これには次の逸話がある。
「夜と霧」の冒頭には、ユダヤ人でありながら仲間のユダヤ人を監視するカポーについての記述があり、ここで描いたのは被収容者であるカポーに見下されていた被収容者の受難だと前置きがある。フランクルは「119104」番であり、医者でもなく、名前もない。収容所では煙草1本がスープ1杯と交換価値がある。食料との交換を断念し、煙草を吸っている仲間がいると行き詰まったな、と察したそうだ。
収容所暮らしでは、一度も歯を磨かず、そしてあきらかにビタミンが極度に不足しているにも関わらず、歯茎は以前の健康状態より健康だった。何日も洗わないシャツを着ていても傷口は化膿しなかったという。人間とはなにごとにも慣れる存在だと定義したドフトエフスキーを正しかったとしている。面白いのは、被収容者がまったく性的な夢をみなかったと、フロイトの無意識がアウシュビッツ強制収容所には存在しないと断定しているところだ。また逆に、宗教的な関心は深く、祈りや礼拝は感動したという。
さらに、「愛」は生身の存在はほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、哲学者のいう「本質」に深くかかわっていて、現存(ダーザイン)としての肉体や生きていることはまったく問題外となるという。例え、妻が死んでいるとしても、心の中で会話することで、満たされている、と。
生きることに意味があるとしたら、苦しむことにも意味がある。なぜなら、苦しむことも生きることの一部で、運命も死ぬことも生きることに一部なのだ。苦悩と死があってこそ、人間は完全なものになる。重要なのは、生きることの意味を180°転換し、なのだ生きることに何かを期待するのではなく、生きることが、私たちから何を期待しているかが問題。人類の普遍性を重要視するフランクルは嫌うかも知れないが、ユダヤ教的に表現すると、神に何かを期待するのではなく、神が私たちに何を期待しているのか、と逆転の発想で考えるべきだとしている。フランクルはこの経験からロゴセラピーという分野を切り開き、多くの患者を救ってきたし、今も救われているだろう。つまり、「父と母を敬え」を守ったおかげで、収容所に行くことにはなったが、人類に大いに貢献することができたのだ。
Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。