見出し画像

『戦争責任と靖国問題 誰が何をいつ決断したのか』ローマの哲学者セネカの「もっとも正しい戦争より、もっとも不正な平和を私は選ぶ」(日本の歴史)

 この本は、過去の山本七平氏の掲載されたさまざまなコンテンツをまとめたもの。

 靖国問題は飛ばし、戦争責任に言及した部分について読んでみた。
 1975年に昭和天皇が訪米した際のニュ―ズウィークのインタビューによって、開戦時の昭和天皇自身の自己規定していた自分の権限を知ることができたとし、その「立憲君主であり、現人神」という捉え方は、思想的にも現実の問題として成り立たないとしている。なぜなら、立憲君主制の最高権威は憲法のはずだ。現人神的考えは、明治帝へのいわば絶対的な崇拝と心服、父祖の掟と先例をあくまで順守するという伝統的な考え方から出たものだ。その2つが両立することはない、としている。

 昭和天皇の「開戦の決定はくつがせなかった」「真珠湾攻撃は事前に知らされていたが、阻止できなかった」という発言は、「言い逃れ」「虚偽の証言」など、個人の倫理の問題なのでそんな発言は興味がないとし、次の「私は憲法の(その)条項に従って行った」という発言に対しては、問題点を指摘している。つまり、明治憲法の規定には第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」しか条項がない。さらに、「作戦要務令」によると、戦闘序列の決定と発令は天皇が行うのであって、天皇以外には、誰も、これを行う権限がないとしている。

 なぜそうなってしまったのか。その原因を山本七平さんは、大正天皇が「空位」としてしか機能できなかったからだとしている。したがって、昭和は大正元年から昭和20年までを1期とした方が理解しやすく、この「空位」の10年間(大正10年に長男の皇太子裕仁親王が摂政に就任)が、後の25年(大正10年から大正15年+昭和20年間)を規定したとしている。つまり、この空位期間の10年間に陸軍省、海軍省、文部省、その他の内閣各省、参謀本部、軍令部等々が、それぞれ実際的には、自らの決定を天皇に対して責任を負うが、天皇がその決定に対して責任を負うのではないという、慣行が確立しているからだ、と。

 最後に、ローマの哲学者セネカの「もっとも正しい戦争より、もっとも不正な平和を私は選ぶ」という言葉を引用し、自らがそう決断し、誇りをもってその道を選択したものは、諸外国からバカにされ、なめられ、何だかんだと注文をつけられ、屈服を余儀なくされるといった自体になっても、決して権威も誇りも失わないであろう、と断言している。野砲少尉としてマニラで戦い、捕虜になった経験をもつ、山本七平氏らしい結論だ。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。