掌編小説『まとも』
「本当に……先輩はさすがですね」
新人研究者の高木が、パイプ椅子に座りながら呟く。
ここは、様々な団体の依頼を受けて研究開発を行う化学研究所。
ピペット、培養器、シーケンサー……いろいろな器具が小綺麗に整頓された実験室に、ヴーンという機械の作動音が鳴り響く。
高木の声の向く先は、彼の直属の先輩である条原だった。
「どうしたんだい、急に」
「ああ、いえ……先輩は新薬の開発に熱心で、研究の計画にも抜かりなくて、こんな遅い時間まで残って実験していて……すごいなあって」
高木は窓の方に目を向ける。外はもう真っ暗で、強まった風が時折ガラス窓を揺さぶってガタガタと音を鳴らす。壁に掛けられた時計を見ると、針はちょうど深夜零時を指していた。
条原は高木に背を向けたまま、小さなフラスコに入った溶液を慣れた手つきで攪拌する。
はぁ、と溜息を吐いて、高木は指折り数えながら続ける。
「だって、他の先輩たちは有給取ってていないし、所長は研究もせずにさっさと帰ったし……同期の桃野に至っては、連絡しても既読つかないんですよ?」
天井から吊るされた蛍光灯が、一瞬パチパチと点滅する。だが条原は気に留める様子もなく、黙々と真剣な様子で作業を続けた。
「本当に…………このラボで『まとも』なのは、条原先輩だけですよ」
そう言って、高木はコーヒーを啜る。それは、疲弊した様子の高木を気遣って、先ほど条原が淹れたものだった。
不意に、ぴたりと条原の手が止まる。
彼は器具を置くと、振り向いて言い放った。
「――――『まとも』というのはね、極めて主観的なものなんだよ」
「え?」
その瞬間――――高木は、息が詰まるほどの激しい頭痛に襲われた。
「――――――――っ!!」
その激痛は一瞬で全身へと広がる。目が充血し、鼓動が早くなっていく。
堪らず椅子から転げ落ちた。
床に撒き散ったコーヒーを踏みながら、もがき苦しむ高木のもとへ、条原はゆっくりと歩み寄る。
「夜更けに一人で新薬の開発をすることが、『まとも』だと思っていたのかい?」
しゃがみこみ、高木の耳元で囁いた。
「――――新薬は、人で試さなくては意味がないと、私は思うんだ」
それから落ち着いた口調で言う。
「狂った者には、同類が『まとも』に見えるという」
条原は高木に向かって――――小さな手鏡を突き付けた。
「私には、君が『まとも』に見えるよ」
薄れゆく意識の中、高木が最後に見たもの。
それは、満面の笑みで涙を流す自分の顔だった。
<了>
2024/02/26 亥之子餅。
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