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Kiss the Rain

 この世界において、雨はもはや恵みではなかった。

 放射性物質に汚染され、舞い上がる粉塵を孕み濁った水が、鉛の雲から槍のように降り注ぐ。直に浴びようものなら、十日と保たずに死に至る。

 人々はそれを「死の雨」と呼んだ。

 その雨で草木は枯れ、得体の知れない化け物が荒野を跋扈した。
 生き残った人類は、成す術もなく、雨が降れば屋内に籠ることを強いられた。川も海も汚染され、研究者は浄水技術の開発に明け暮れたが、どの技術は完全とは言えず、至る所で奇病の報告が相次いだ。

 誰しもが感づいていた――世界の終焉は、もうすぐそこだと。

 ***

 ざんざんと雨が降り頻る夏の日。
 荒れ果てた平原を、防護服を着た男が歩いていた。痩せこけた身体で、段ボール大の箱を背負っていた。

「もうすぐのはずだ……」

 膝が抜けそうになるのを堪え、倒れ込むように一歩を踏み出す。
 この一か月、海を渡り、大陸を歩いてきた。だが食料が底を尽いて早三日、視界が錯乱し、平衡覚も狂い始める。もう自分が生きているのかどうかすら定かではなかった。

 *** 

 死の雨が上がってしばらく経ったとき、男はふと歩みを止めた。

「ああ、着いた……」

 目の前に広がる光景――それは荒廃したこの世界のなかで、唯一残された楽園と呼べるものだった。


 ――――どこまでも続く、ホワイトリリーの花畑。

 穏やかで音のない風が、微かに肌を撫でる。
 柔らかい斜陽が差し込んで、純白の花弁を眩しく照らす。

 男は膝から崩れ落ちた。座り込んだ足元で、散った花弁がふわりと舞い上がり、風に乗って運ばれていく。


 白い花弁が見えなくなるほど風が遠く過ぎ去った頃、男は徐に、被っていた防護マスクを外した。
 それから、例の大きな箱に手を伸ばすと、中にある小さなそれを、大事そうに取り上げた。


「遅くなってごめんな」

 それは、かつて息子だったものの亡骸。
 一歳半だった。くるんでいた白い布を取り、花畑にそっと横たわらせる。
 

 ――――そのとき、透明な雫が、空から優しく降り注いだ。
 ぽつり、ぽつり。次第に雨足は強まり、ホワイトリリーが露を落として揺れる。

 ここは恐らく世界で最後の、澄んだ雨が降る場所。


 男は目を閉じて天を仰ぐ。
 ひとつ、またひとつと、水滴が唇に落ちて口元を潤《うるお》す。

「…………こんなに、綺麗なものだったのか」

 頬を伝う雨粒は幾度にも重なって、霞みゆくもうひとつの灯を震わせる。
 この世界を弔うように、静かな天気雨はいつまでも白い花を濡らし続けた。


 <了>

2024/07/09 亥之子餅。

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