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梟の見た夢 #終「兎の見た空」

「そうだ、値段決まってない……」

 レジの前で、理穂は急に呟いた。困り顔で、フクロウの置物をじっと見つめている。

 理穂はさっき、置物は今朝いきなり現れたと言っていた。この置物のことを忘れてしまったのも、つい昨日のことかもしれない。値段が分からないのも当然のことだ。

 ……だが、理穂はこのフクロウに、一体いくらの値を付けるのだろう。僕との思い出を失った彼女にとって、その置物はどれほど価値があるだろうか。
 それを知ることはつまり、彼女の本音を聞いてしまうことであるような気がして、とても恐ろしく思えた。奏多は、彼女の次の一言を、固唾を呑んで待った。

 すると、理穂はカウンター越しに、フクロウを奏多に差し出しながら、申し訳なさそうに言った。

「あの……この置物の値段、決めてもらえませんか?」

 奏多は言葉を失って固まった。
 なんて、残酷な質問なんだ。心臓を掴まれたように、体の中心が重たく痛む。
 それでも、恐る恐るフクロウを受け取り、掌で転がしながらじっと眺めた。

 長い時間を経て、彼の手に帰ってきたフクロウ。
 ――――それは、教室で理穂に渡したあの瞬間から、驚くほど少しも変わっていなかった。後からついた傷も、汚れも、劣化すらも見当たらない。本当に、あの日のままのフクロウ。
 そのでこぼこの羽を、指先でちょっと撫でるだけで分かる。理穂がどれだけ、このフクロウを大事に持ってくれていたのかを。

 それが痛いほど伝わってきてしまうから、余計に胸が締め付けられるのだ。


 こんなの、値段なんか付けられるわけがない。お金なんかで計れる価値は、このフクロウにはないのだから。
 苦しそうに小さく吐息を溢し、奏多はフクロウを彼女に返した。

「……ごめんなさい、分かりません。これの価値を決めるのは、私ではないから」

 理穂に忘れられてしまった今、こんな不恰好な置物には、何の意味もない。

「いえ、こちらこそすみません、変なこと聞いちゃって」

 そう言って、彼女は頭を下げて詫びると、再び、静かにフクロウとにらめっこを始めた。

 人生で一番の勇気を振り絞って渡した、フクロウの置物。
 ずっと大事にする……そう約束してくれた、あのフクロウを見つめながら、理穂は今、それに付ける値段を決めかねているのだ。


 そう……ちょうど十年前の春だった。
 これ以上ないほど考えて、悩んで、何週間もかけて作った不細工なフクロウを、理穂に手渡した。理穂は、奏多が期待していた何倍も、嬉しそうな顔をしてくれた。
 思えばあれが、まともに理穂と過ごした、最後の日々になってしまった。いつだって受け身で、内気で、口下手で、手を引かれてばかりだった、理穂との毎日。

 あの教室――誰もいない放課後の教室に、奏多は想いを馳せる。

 そのときだった。

 刹那、目の前が溢れんばかりの光に包まれた。
 窓から飛び込んだ暖かい春の日差しが、目の前を明るく染め上げていく。

 …………そうだ、あの時もちょうどこんな風に、眩い金色の光が、揺れるカーテンのように降り注いでいた。
 食い入るように、ただひとつフクロウを見つめ続ける理穂の顔が、斜めに差し込んだ光に照らされて輝く。あの時と同じ、凛としていて、透き通った瞳。セーラー服を着ていたあの日の理穂が、まるで目の前に戻ってきたような、そんな錯覚に陥る。

 もしも、十年前に戻れるなら。
 いや、たったひと月前にでも戻れたなら。
 ――――僕を忘れる前の君に会えたなら。


 僕は二度と、君の手を離さないのに。
 絶対に、君を失うようなことはしないのに。


 ……でも、それは叶わない。
 もうあの幸せだった日々は戻ってこない。
 ぎゅっと強く瞼を閉じる。

 ああ、僕は……
 脳裏に鮮やかに映る、幸せそうに笑った――大切な理穂の姿。


 彼女と同じ時間を生きられたことが、僕の何よりの幸せだった。明日また会える――それだけで、まだ明日を生きていたいと思えた。
 どれだけ弱くても。どれほどみんなより劣っていても。
 彼女がほんの少し笑いかけてくれる、ただそれだけで、自分を嫌いにならない勇気が持てた。

 だから、今度は僕が、彼女をそばで支えていくんだと。彼女の明日をどこまでも見守り続けていくんだと、そう心に誓ったんだ。
 たとえ、君と過ごした時間が消えてしまったとしても。

 僕は……だから、僕は――――


 心の中で、張り裂けるような想いが響く。


 『まだ、君と一緒にいたい』


 ゆっくり目を開いて、理穂の顔を見る。すると、彼女もまた顔を上げていた。
 二人はその一瞬、お互いの心を見透かすように、真っ直ぐ瞳を見つめ合った。

 ……とても、長い一瞬だった。


 そして次の瞬間、曇りない理穂の瞳から、一粒の涙がほろりと溢れて頬を伝う。
 それはまるで朝露のように透明で、静かな、温かい雫だった。
 理穂が泣いている――いつもだったら、言葉に困って取り乱していただろう。しかし、その一粒の涙が、あまりに澄み切っていて美しかったものだから、奏多は思わず見入ってしまった。

 まるで、美しい景色に出逢ったかのような。
 幸せな夢から醒めていくかのような……。


 だがすぐに我に返る。彼女の様子を伺うように、恐る恐る声をかけた。

「大丈夫……ですか?」

 理穂は尋ねられるまで、呆然として立ち尽くしていた。
 だが奏多の不安げな声を聞いて、初めて自分の頬が濡れていることに気づき、驚いた表情を見せる。

「す、すみません……大丈夫です」

 自分がなぜ泣いているのか分からずに困惑していた。慌てて何度も、両手の袖で涙を拭う。涙でできた染みを隠すように、彼女はぎゅっと袖を握りしめた。長い睫から覗く眼が、微かに赤らんでいた。
 しかし、落ち着いてからもう一度、手の中のフクロウに向き合った。それから何かを心に決めたように、小さく、確かに頷いた。

 そして、独り言でも溢すように、柔らかい声で、ぽつりと呟いた。


「……やっぱり、売らないでおきます」


 微笑みを含んだ、どこか遠くを見つめるような声だった。

 理穂の言葉を、すぐには理解できなかった。
 どうして、急にそんなこと……奏多が問い返そうとしたのと同時に、理穂はまた、自分を語るように続けて言った。


「もう少し、この置物を眺めていたいなって————そう思うので」


 なかなか、言葉が見つからなかった。
 たぶん、彼のことを思い出したわけではないのだろう。その言い方からして、このフクロウの思い出が蘇ったわけでもないのだろう。
 だが、フクロウを握る理穂の手は、先刻よりも遥かに温かく、想いに溢れていた。
 まるで――大事な人を、抱きしめているかのように。


「……分かりました」


 今はもう、それだけでいい。ほんの少しでも長く、理穂がそれを大事に持っていてくれるのなら。
 どこまでも自分勝手な考えだけど――僕という人間が、彼女の隣にいたことの証を、僕は今、何よりも大切にしたい。

「ごめんなさい、わがまま言ってしまって」

 頭を下げる理穂に、奏多は首を振る。
 謝る必要なんかどこにもないんだ。それの価値を決められるのは、君しかいないんだから。

 奏多はゆっくりと深呼吸をする。
 ――――うん、これでいい。
 気を取り直すように、空元気で明るい声を出した。

「それじゃ代わりに、何かいただこうかな」
「はい!何にしましょうか?」

 奏多の声色につられたのか、まだ少し眼の赤い理穂も、元気な声で返す。

「そうですね……」

 店内をぐるりと見渡す。
 何か代わりにと言ったはいいものの、この店にあるもので、僕が欲しいものってなんだろう。もともと今日は、何かを買いに来たわけではない。必要としているものも、こんな今となっては、特に思いつかなかった。

 不意に、またあのフクロウに目線が向く。
 僕がこれまで、自分で買ったり誰かから貰ったりしたなかで、一番嬉しかったもの……。
 それなら、僕が一番欲しいものは――――。

 彼女に向き直ると、奏多はにっこりと微笑んでみせた。

「————じゃあ、選んでもらえませんか」
「……え?」

 想像もしていなかった返しだったのだろう。理穂は拍子抜けしたように声を漏らした。やがて、不安そうに控えめな声で問い返した。

「……私が選んでいいんですか?でも、親友さんへのプレゼントをお探しなんじゃ……」
「ああ、いえ、そうじゃなくて————私のために」
「ご自身へのプレゼント、ですか?」

 奏多は頷いてみせる。
 彼女が選んだもの――それがこの店で、彼が一番欲しいものだった。
 でもせっかくだから……。

「何か、長く使えそうなものをお願いします」

 彼女はしばらく悩んでいた。フクロウの他にも、記憶を失っている商品があったっておかしくはない。今の彼女には、すべての商品を完全に把握することは難しいのだろう。時折店内に目を遣りながら、靄のかかった記憶を手繰り寄せるように、目を閉じて考え込んでいた。
 すると突然、

「————そうだ!」

 声を上げたかと思えば、小走りで奏多の横を抜けて、店内のある一角から何やら商品を持って戻ってきた。綺麗な石を見つけた子どものような無邪気さで、それを両手で彼に差し出す。
 それは、白いマグカップ。
 以前から理穂が愛用しているものによく似ていた。カウンターの上に置かれた、彼女のマグカップに目を向ける。会いに来たとき、決まって彼女は、あのマグカップでカフェオレを飲んでいた。
 たしかに、ずっと使えるものだ。理穂らしい、素敵な選択。……理穂とお揃いというのも、密かに心が弾む理由だった。

 しかし、奏多が見ていたのは、柄が描かれていない裏側だった。
 何気なくマグカップを回して、表面に描かれたものを見たとき、ドクンと大きく心臓が拍を打った。じわりと全身が熱くなる。

 どうして――――。

 言葉を失いながらも、何とか絞り出すように呟いた。


「…………ウサギ、ですか」


 一羽の白いウサギ。一輪の花をその口に咥え、遠くの空を見上げている。
 ウサギ……それは奏多にとって特別な意味を持つもの。

「……なぜ、ウサギなんですか」

 訊かずにはいられなかった。
 理穂は答えに詰まっている様子だったが、たどたどしくも、言葉を紡いでいった。

「……うーん、どうしてかって訊かれると難しいんですよね……なんとなく、これがいいなって思ったっていうか」

 そして、理穂は真っ直ぐに、奏多の瞳の奥を見つめながら言う。


「ちょっと気弱そうなところとか、ご親友のために真剣にプレゼントを探す優しいところとか、ウサギさんみたいだなって」


「…………」


 今度こそ、何も言葉が見つからなかった。

 ……なんだよ、それ。


『私、ずっと思ってたんだよね。ちょっと気弱なところとか、――こうやって私のために一所懸命作ってくれる優しいところとか、ウサギさんみたいだなって』


 あの日の理穂の言葉が鮮明に、頭の中でこだまする。

 ――――あのときと、同じじゃないか。

 目頭が熱くなる。視界が滲んでぼやけた。
 感情の波を追いかけるように、今までに貰った理穂の声が次々と、走馬灯のごとく蘇る。


『おはよう、奏多!学校まで一緒に行こ!』
『なに読んでるの?私にも見せて!』
『あっ、また休み時間に一人でいる……暇なら一緒にお話ししよ!』


 ずるいよ、そんなの。


『ねぇねぇ、今度の週末どっか遊びに行こうよー』
『大丈夫、奏多ならできるって!一緒に頑張るから!』
『――――なんか、奏多が笑ってるところ、久しぶりに見た気がする』


 …………君は、僕を忘れたっていうのに。


『あっ、奏多!こっちこっち!』
『奏多はさぁ……』
『あれ、奏多?』
『奏多!』


『ねぇ、奏多』


 僕は…………


『ありがとね。大事にする、ずっと』


 僕は、こんなにも君を憶えてるというのに。


「…………」

 ……そういうところなんだ、僕が君を好きだったのは。
 幼馴染だからじゃない。特別に仲良くしてくれたからじゃない。
 そういう、君の真っ直ぐなところなんだよ。
 僕のことを正面から見つめてくれる、そんな君の温かさだったんだよ。

 ぽろぽろと止めどなく涙を落とす彼の姿に、理穂は動揺して必死に声をかけた。

「ご、ごめんなさい!!悪く言ったつもりはまったくなくてっ」

「……いえ、違うんです。これは違くて……」

 喉に涙が詰まって、うまく声が出ない。
 理穂もかける言葉に迷って何も言えずにいた。店内には、彼の泣く音だけが静かに響く。


 胸に手を当てて、気持ちを落ち着かせる。
 それから顔を上げて、奏多は理穂に向き直った。精一杯、彼女に笑ってみせる。

 それは、ずっと言えずにいた言葉。
 心の中で、何度も伝えようとした言葉。


「…………ありがとう。本当に」


 なんで、もっと早く言葉にしなかったんだろう。

 一緒に遊んでくれたとき。
 一緒に登校してくれたとき。
 好きな本について聞いてくれたとき。
 放課後に宿題を教えてもらったとき。
 独りでいるところに声をかけてくれたとき。
 あの日、真っ先に電話をしてくれたとき。

 …………あのウサギを、君がくれたとき。

 どうして、その場で言えなかったんだろう。
 僕が、僕であるうちに。

 一度でも、自分の本音を、自分の言葉で君に伝えることができていたなら、もっと違っていたのだろうか。僕が素直になれていたなら、君は今も、僕を僕として……たった一人の幼馴染として、見つめてくれていたのだろうか。

 君が大切だってこと、君が必要なんだってこと――君は今、知ってくれていたのだろうか。

 さっきより少し暗く見える彼女の髪が、奏多の心をくすぐるように、微かに揺れていた。


 ***


「その紙袋――ご親友へのプレゼントですか?」

 ラッピングしたマグカップを手渡しながら、理穂は尋ねる。
 奏多は自分の手元に目を落とした。

「ああ、これですか……これは————」

 こんなことがあったからつい忘れかけていたが、今日は理穂の誕生日だ。
 ……しかし、理穂自身は、いつもと変わった様子はない。今日が誕生日だということを、理穂は憶えているのだろうか。

 持ち帰って、一人で食べる気持ちにはなれなかった。このまま捨ててしまうのも心が痛む。とはいえ、今日はあなたの誕生日だからケーキを買ってきました、なんて言えるわけもなく、奏多は返しに詰まってしまった。

「…………いえ、これはただのお菓子です。気まぐれに買っただけで」

 でもこれは理穂のために用意したケーキだ。
 だからやっぱり……。

「よかったら、食べてください」
「え? いやいやそんな、いただけませんよ!」
「いいんです。これを選んでくれたお礼と思ってください」

 渋る彼女に、わざとらしくマグカップを胸の前に掲げてみせた。その様子が少しおかしかったのか、観念したように口元にちょっとだけ笑みをこぼすと、彼女はぺこりとお辞儀をした。

「じゃあ、お言葉に甘えて——美味しくいただきますね」

 言いながら、照れたような可愛らしい笑顔を見せた。
 しかし、奏多が背を向けて出口に向かおうとしたとき、再び引き留めるように彼に尋ねる。

「あれ、それじゃご親友のプレゼントは……」

「ああ、そうですね……」

 プレゼント、か……。
 自分が今までに贈った、一番想いを込めたプレゼント。それは何週間もかけて、相手のことを想いながら、この手で作り上げたもの。

「————自分で、作ろうと思います。そのフクロウみたいなやつを」

 彼女はふふっと笑う。
 それから、彼の背中越しに語りかけた。

 それは他意のない純粋な感想だったが、彼にとっては、何より大きな意味を持つ言葉だった。


「そんなに真剣に想ってもらえるなんて————そのご親友は幸せですね」


 不意に呼吸が詰まる。ああ、その親友というのは……。

 だけど、もし君がそう思ってくれたなら。
 彼女には届かないくらいの微かな声で、奏多は宛名のない本音を床に落とした。


「幸せだったのは、僕の方だよ――――理穂」


 想いを後ろに隠すように、奏多はくるりと振り返る。そして深く頭を下げて、精一杯の笑顔で応えた。

 さようなら、理穂。これから、よろしくね。

「また、来ます」
「はい!お待ちしています!」

 傾きかけた春の日差しは、物語の終わりを彩るように、二人の間に鮮やかなオレンジ色を添える。
 小さな一歩を踏み出したウサギを見守りながら、歪な目のフクロウだけが、凛と佇んでいた。



 <了>

2024/06/22 亥之子餅。

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