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蜂起は高貴か?

(2022年3月4日、記)

たった一人の老害で、人類が滅亡してしまうかもしれない。

これが、専制主義の怖さ、原子力の怖さ。


(2022年3月1日、記)

ヨーロッパで戦争が始まってしまった。

昨年3月、ミャンマーの国軍記念日の招待に応じた数少ない国の一つがロシアだった。

国営メディアを前に、デモを制圧した武器の数々を手に取りながら談笑する総司令官とロシア国防次官の姿は、背筋が凍りつくようなシーンだった。

親ロシアを公言する国はわずかでも、もし中国がロシア支持を表明すれば、発展途上国を中心に多くの国が追従するだろう。

それに対し、NATOは東側に拡大しないと無責任な口約束をしていたアメリカとEUが、ウクライナに武器を提供する。

そして、一つしかない命を奪われるのは、いつも市民と兵士たち。絵に描いたような代理戦争になってしまう。

国のために留まって共に戦えと国民を鼓舞するリーダー。今この瞬間は英雄に見え、付いていこうと惹きつける。命をも捧げようと思わせる。

けれども、長い目で見れば、それは違う。後年、絶対に後悔する。失われた命が蘇ることは、もう絶対にないのだから。

東の大統領も西の大統領もミャンマーの国軍トップもNUGトップも、「国民の命を守りつつ」という思考が欠落している者に、リーダーの資格はない。

国のリーダーの最大の使命は「国を守ることに全力を尽くす!」ではない。「国民の命を守り抜くことに全力を尽くす!」のが、真のリーダーの姿ではないのか。

人類は何を血迷っているのか。

人類の…いや、地球上に生まれてきたすべての生き物の最大の使命は、科学がどうなろうと環境がどうなろうと揺るがない。

それは、「生き抜く!」ということだ。


(2022年2月5日、記)

クーデター勃発から、これといった進展もないまま一年が経ってしまった。
時の流れは、怒りや悲しみを消しただろうか。

以前から付き合いのあった、いろいろな立場のミャンマーの友人たちからは、いまだ、軍を支持する言葉は一言たりとも聞いたことがない。

本音の吐露を避ける者はいるが、それでも、決して軍が正しいとは言わないのだ。

多くの国民の軍に対する嫌悪感は、決してイメージでもメディアの扇動でもなく、紛れもない事実であるということが、旧友たちの感情から伝わってくる。

彼らは、クーデターを起こした国軍を許していない。政権とは認めていない。

現在、表立って武装することが難しい都市部では静かな意思表示が主流になっていて、元々少数民族独立軍が力を持っていた地方では戦闘が激化しており、抵抗のしかたに二極化が見られる。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220201/k10013460391000.html

1月には独立記念日があったが、そこでも国軍のトップは、民主派をテロリストと呼び、少数民族独立軍には和平を呼びかけた。

そして、結びとして「民族の団結を」と…

自分たちこそ少数派だということが、本気で分かっていないのか。正真正銘のKYなのか。

大勢で叫びながら歩いたから撃ち殺す、そんな屁理屈が、21世紀のこの地球上でまかり通るとは…有り金をせびるヤンキーでも爆音を撒き散らす暴走族でも、もうちょっと気の利いた言い訳をするもんだ。

その国軍に対抗する機関として、2021年4月にNUG(National Unity Government: 国民統一政府)が結成されている。

そもそも軍隊によるクーデターは、昔も今も西でも東でも非合法な行為であるのに対し、NUGは、クーデター前の総選挙で選ばれて本来政権を担う立場だった者たちが中心となって組織されたものである。国民を代表しているのはどちらなのか、子供でも分かる。

では、そのNUGの姿勢はどうか。

2021年5月には、PDF(People’s Defence Force: 国民防衛隊)の結成を発表し、9月には、全国民に向け、蜂起を呼びかけた。

最初にして最大の過ちは、軍隊による丸腰の民衆への狙撃。

そして、最大の失望は、何もできない日本政府、国連、国際社会。

これは紛れもない事実であり、日本人として悔しいし申し訳ない。

だとしても、民主主義のために戦えとけしかけるリーダーたちを、私は認めることはできません。

クーデターが勃発してから間もなく、日本でもミャンマーの市民への支援の輪が広がり、寄付額はメガトン級に膨れ上がっていった。

その頃、市民の武装化に金が流れることはないだろうかとの私の不安は、そんなことに使われるはずないだろうと一笑に付されたものだ。

私も、ミャンマー人に限っては、そっちに行くことはない、行ってほしくないと祈るような気持ちでいたが、やはり、歴史は繰り返すものなのか、やがて戦いの連鎖が始まり、いまだ止まる気配はない。

民主主義のために戦おうと国民を鼓舞するリーダーたち。

その彼らは、どこで何をやっているのか。

宣言をぶちかました勢いのままに戦場の最前線に向かっていったか?

いや、おそらく、そのまま本部で座っていることだろう。

いつの時代も、いくさの矢面に立つのは、強くて機敏で燃えやすい純粋な若者たちからだ。

幹部たちはなぜ行かない。指導者だから?もう歳だから?そんなことは関係ない。老いた命も若い命も、命は命。

これでは、第二次世界大戦中の大日本帝国軍と何ら変わらない。お国のために戦えと、大君のために命を捧げよと。

そして、皇族もお望みでなかったに違いない特攻という前例のない命の使い捨てまでやってしまった。

そんな戦慄の発想は、どこで生まれたのだろうか。戦場での戦いの最中だろうか。

いや、パンドラの箱が開けられたのは、厚い壁に守られた作戦室の机の上に違いない。

特攻とはこうやるのだと、先陣を切って敵艦に突っ込んでいった司令官が一人でもいただろうか。

死を美化してはいけない。

最近はCGの技術がどんどん上がっていて、現実と仮想空間の境界がどんどんぼやけてきてて、仮想の世界でのことは現実でも叶えられるような、やってもいいような錯覚に飲み込まれつつある人もいるのではないだろうか。

リアルな映像の戦闘ゲームなどに没頭すればするほど、現実離れしたいびつな死生観が定着していくのではないだろうかと心配になってくる。子供に人気のアニメでも、殺傷のシーンは異常にリアルでむごい。

いかに仮想であっても、殺戮シーンの日常化は、自殺や殺人や自爆テロなど、死へのハードルをどんどん下げてしまうのではないだろうかと、痛みを伴わないバーチャル社会の蔓延には不安を感じずにはいられない。

自分の命を捨てて誰かを守る英雄伝は、どうかドラマやアニメの世界だけに留めてほしい。現実の世界で英雄になろうなどと、どうか思わないでほしい。

現実の戦争には正義も悪もない。あるのは言い訳のみ。

攻撃する側の正義は、やられる側から見ればテロリズムでしかない。どこから見るかの角度が違うだけだ。

若者を命がけにさせてはいけない。犠牲になることを讃えてもいけない。それが他人の子であればなおさら。

寄付金が武器の購入に使われることもやむなしと納得する方々。武器を持って戦うしかないと論ずる先生方。まずは戦場に行って最前線に立ってください。それをやらないのなら、当事者の痛みを感じようとしないあなたの論理に賛成することはできません。

かつて親が子にしきりに言っていたシンプルで古めかしい言葉を、この時代にあえて言います。
「命を粗末にしてはいけない!」自分の命も、他人の命も。


この先、私たちは、ミャンマーとどのように向き合っていけばいいのか。

これまでに、様々なご意見が届いております。一部は、メールを通じて個別にいただいたものです。

2021年にいただいたご意見は、前便「今、リーダーがやるべきことは?」にまとめました。

https://note.com/inochimyanmar/n/n3d6a2e515a54

2022年からいただいたご意見は以下のとおりです。

※ ミャンマーに限らずですが、軍というのは自国の領土・主権・国民を守るためにあるのであって、自国民に銃を向けた時点で軍にあらず、単なる賊だと思います。

嵐は、日々清廉潔白に生きていても、来るときは来る。そういう時は、身を低くして、できれば安全なところに退避して、嵐が去るのを待つのみ。死んで後進に託す、は、一見かっこいいけど、そうじゃなく、生きて&自分で&やりなさい!と、私は言いたい。自分でやるためには、生きなきゃダメなのよ!とも。(Feb. ’22, 日本人)


引き続き、自由なご意見をお待ちしております。

市民の武装化には決して加担しない支援の仕組みを確立されている団体がありましたら、ぜひご紹介ください。

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https://www.help-note.com/hc/ja/articles/900000936783-note%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E7%99%BB%E9%8C%B2%E6%96%B9%E6%B3%95

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