芝居を演ること、芝居を観ること~舞台『あのよこのよ』~

演劇の魅力・面白さは「見立て」にある。
劇作家・演出家・俳優の野田秀樹氏は、そういったことを口にする。

舞台『あのよこのよ』(青木豪作・演出。以下、本作)は、まさに野田氏の言葉どおりの、少し硬く云えば「"芝居・演劇"そのもののメタファー」といった作品である。

舞台は明治初期。
浮世絵師・刺爪秋斎(安田章大)は、新政府を批判したとして番屋に入れられていたが、初犯ということもあり解放され、迎えに来た弟の喜三郎と、居酒屋で宴を共にしていた。
そこで秋斎は喜三郎から出所祝いとして眼鏡をプレゼントされ喜んでかける。
さらに秋斎は居酒屋に居合わせた、未来が見えるという能力のある常連・フサに占ってもらうと、「女に出会う」と告げられる。「その女が秋斎の未来を決めるだろう」と。
そこに美しい女が男と共にやってくる。秋斎が出会う女性は彼女なのではないかと話していると、突如、刀や銃を持った男たちが現れる。そして男たちは秋斎たちに襲いかかって来るのだった……。

本作公式サイト「あらすじ」

「見立て」を換言すれば「(観客の)想像力」であり、誰も見たことのない明治初期の、しかも、実際にはなかった出来事の物語に夢中になることでもある。
しかし本作はそれだけでなく、物語の構造、セリフ、演技、衣装はもちろん、セット、小道具に至るまで、徹頭徹尾「見立て」(野田氏の云う『演劇の魅力・面白さ』)で出来ている。

観客は「見立て=想像力」により、「中身は"錦の御旗"」と言われれば(小道具の)行李こうり箱の中に、見たことないくせに、各々が思う「何だか"錦の御旗"」を透視する。
「お前、俺が見えるのか?」というセリフを吐いた登場人物のことが(生身の俳優が演じていると知っているのに)「幽霊」に見えてしまい、以後、その人物への対応で各人物を「この人は見えるけど、この人には見えない」と勝手に納得してしまう。
斬られた後に赤い蜘蛛の糸(紙テープみたいなやつ)が広がると血しぶきに見えるし、斬られた人が倒れて動かなければ「この人死んだんだな」だと思う。
……と、本作は徹頭徹尾「見立て」で出来ており、数え上げたらキリがないが、こうした演出が出来るのは「物語の構造」が自覚的に「見立て」を利用しているからだ。

「見立て」が自覚的なのは、中盤の「コロリで全滅した廃村での、秋斎とミツ(潤 花)」のシーンでわかる。ここでの「案内役」はミツだ。
彼女は、散りゆく桜の花びらを見ながら『もしかしたら桃かもしれませんよ。"桃"、"桃"と言っていれば"桃"になるかも』と言う。もちろん舞台上には何も舞ってはいないが、そうではなく、重要なのは舞台上で「桜」と言えば「桜」、「桃」と言えば「桃」を観客が「見立てる」ということである。
続けて彼女は『私は"ミツ"ではないかもしれませんよ』と言って、幾つか他の名前を挙げてみせる。これは、何役も演じ分ける市川しんぺーらに接続され、つまり、それらだって観客が「見立て」ていることが示唆される。

さらに言えば、『あの"よこ"がこの"よ"になって』といった、タイトルをもじった謎めいたセリフは、舞台と客席を示唆しているとも考えられる。
つまり、芝居が上演されている間だけは、現実ではない世界が演じられる舞台(「あのよ」)が「このよ」として存在し、現実に我々観客がいる客席(「このよ」)が「あのよ」という存在しないものとして「見立て」られ、『あのよこのよ』が逆転する(だから、フサ(池谷のぶえ)と又蔵(三浦拓真)が客席を歩くシーンでの『誰かに見られているような……』というセリフが成立する)。

秋斎がかけている色眼鏡も同様で、それはつまり、「眼鏡をかけている(=劇場に集っている)今・この時」を意味している。
そして、劇場という空間における「このよ(舞台)」=勘太(落合モトキ)と、「あのよ(客席)」=ミツ(観客に対する案内役)は、想いを共有し、二人そろって「今晩(=芝居を観ている間)は楽しかった」と二人で消える(=劇場を後にする)のだった(つまり、本作が「一晩の出来事」であることは、現実の「観劇」に通じている)。
これは「芝居をること」「芝居を観ること」双方のメタファー、というか、それらの行為に対する一種の解答となっている。

この「解答」を目の当たりにした秋斎は、自分の描く浮世絵に足りなかった物に気づき、浮世絵師として決意を新たにする。
その真に迫る圧倒的な独白が観客の胸に深く刺さって感動を呼び起こすのは、それが、「演じられる者あのよ」と「それを演じる者このよ」が融合した、様々辛い事情からグループ名を改めての再出発に至った安田章大自身の、真剣な決意表明だったからである。

メモ

舞台『あのよこのよ』
2024年4月12日 マチネ。@PARCO劇場

当初、饒舌過ぎるセリフの応酬に戸惑ったが、それらのセリフにより、私の眼前(脳内)に「見立て」が次々と現出することに気づき、物凄く楽しくなった。
勘太とミツの最期のシーンでは、自分が普段劇場を後にする姿が目に浮かび、私は本当に幸せな時間を過ごしているのだと、胸がいっぱいになった。




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