「時間」を否定する~坂本龍一+高谷史郎『TIME』~

時間は常に進み、戻ることはできない。時間は常に進むが、かといって飛び越すこともできない。
それが自然の摂理であり、どんな金持ちだろうが、権力者だろうが、「世界征服」を企む悪の組織のボスであろうが、あらがうことはできない。

高谷史郎(ダムタイプ)とのコラボレーションで舞台『TIME』(2021年初演。以下、本作)を制作した故・坂本龍一は、本作パンフレットにこう寄せている。

パフォーマンスとインスタレーションの境目なく存在するような舞台芸術を作ろうと考え、『TIME』というタイトルを掲げ、あえて時間の否定に挑戦してみました。

ここで坂本が『否定』しているのは、「地球上のあらゆる生命は、産まれた瞬間から死に向かって時間が進む」という自然の摂理自体でないことは、本作日本初上演初日に一周忌を迎えた彼の「LIFE」自体が雄弁に物語っている。

『時間』とはそもそも、人間が創り出した「概念」であり、それに沿って1秒、1分、1時間、1日、1カ月、1年……という「規則」を定義付けし、そのことにより「自然すらもコントロールできる」という万能感に浸り、そのくせ、その万能感により逆説的にそれに支配された息苦しさに喘ぐ。
坂本はつまり、「それ」の否定に挑戦したのである。

舞台上には大きな浅いプールが設えてあり、その下手しもて(舞台に向かって左)側には人が腰掛けられる大きさの岩が置かれている。

始まり。
下手から宮田まゆみがしょうを吹きながら、ゆっくり歩いて来る。彼女は水面もおかも隔てなく、一定の速度で、ゆっくりゆっくり上手かみてへと歩いてゆく。
いつの間にか上手には田中泯が立っている。

本作は主に、田中のパフォーマンスと高谷による映像インスタレーション、そして坂本の音楽(と宮田の笙の演奏)によって構成され、それらによって夏目漱石の「夢十夜」や能の「邯鄲」や荘子の「胡蝶の夢」のイメージが挿入される。

上述したように坂本が『否定』しているのは、人間が勝手に規定した(そして、勝手に支配されている)「TIME」であり、本作は、「邯鄲」では50年、「夢十夜」では100年を、イメージ(物語の想像力=人間本来が持つ想像力)によって軽々と超越してみせる。
個人的には、「邯鄲」でプールの奥側に置かれた背もたれのない長椅子に田中が横たわっているシーンが印象に残っている。
客席の前列で観ていた私の視線の高さは、舞台上の水面とほぼ同じで、バックの映像と水面に映る長椅子の脚、たゆたう水面によって、まるで長椅子が、それに横たわる田中が、宙に浮いて時空を漂っているように見えた。

「邯鄲」の主人公・盧生は『極楽浄土のように壮麗で広大な宮殿に王として迎え入れられ』、あっという間に50年を過ごしてしまう。そこで、『千歳まで寿命が延びる仙薬を飲』み、『栄華を讃える宴を、夜も昼も続け(略)宴を楽しんでいた』。
田中によって、そう朗読(生ではなく録音されたもの)されるバックの映像は、忙しなく生きる現代人の姿。そして、やはり高谷と坂本によるコラボレーション『async - - immersion 2023』を彷彿させる、映像が走査線によってスキャンされるように変化する。
『async~』では、スキャンされた映像は、また走査線に従って再生されるが、本作では……

急にそこにいた人々は消えてしまった

との言葉により、二度と再生されることはなかった。

ここでもまた、坂本は「自然の摂理」を否定していない。彼が否定するのは、あくまでも「人間の万能感」である(そして、それによって逆説的に万能感を失ってしまう、ということを皮肉ってもいる)。

それを象徴するのが、田中がひたすら煉瓦をプールに置いていくシーンだ。

音楽評論家の片山杜秀氏は、本作評でこう指摘している。

プールの上手側の水際には田中泯が佇む。彼は水を恐れているようだ。労働を始める。水の中に煉瓦を沈めてゆく。安全な水路か橋を作ろうとしているのだろう。その動作は重々しい。1960年代に作られた、福島第一原発の建設記録映画「黎明」を思い出した。間宮芳生の雄大なプロコフィエフ風の音楽に乗って逞しく自然が改変される。建設現場に面する太平洋の荒波に消波ブロックがひたすら沈められる。波を支配するために。

朝日新聞2024年4月4日付夕刊

労働していた田中は、最終的に津波を想起させる波の映像にのまれる。
このイメージは明らかに坂本の遺した意思であり、「人間の万能感」を否定し、そして皮肉ってもいる。

『こんな夢を見た』で始まる、夏目漱石「夢十夜」の「第一夜」。
臨終の淵にいる女を看取る男。
女は、『死んだら、埋めて下さい。(略)そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから。(略)百年待って下さい』と言う。

日が出るでしょう。それから沈むでしょう。それからまた出るでしょう。そうしてまた沈むでしょう。-赤い日が東から西へ、東から西へと落ちていくうちに。

女が死んだ後、男は約束を守って待ち続ける。何度も『赤い日が東から西へと落ちていく』のを見たが、女は逢いに来ない。そのうち騙されたような気になる。
と、そこへ『石の下からはすに自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た』。茎は座っている男の顔のあたりで花を咲かせた。百合の花だった。男は、百合の花に接吻をする。

自分が百合から顔を離す拍子に思わず遠い空を見たら、あかつきの星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

最終盤、始まりと同じように、宮田まゆみが笙を吹きながら舞台下手から上手へゆっくりと歩いてゆく。水面も陸も隔てなく。
私たちは、石に座った男が『赤い日が東から西へ、東から西へと落ちていく』のを見続けたように、客席に座って見守った。
舞台は暗くなり、反対に客席が明るくなった。
それは「人間が勝手に規定した時間」では80分だった。
しかし私たちはそれを否定する。
私たちは確かに、100年という時を超えた。

メモ

坂本龍一+高谷史郎(ダムタイプ)『TIME』
2024年4月12日。@新国立劇場 中劇場


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