夢と現~舞台『夏の砂の上』~

二日酔いの朝、あまりの辛さに起き上がる気にならず、布団の中で仰向けになってぼんやり天井を見つめる。昨日はどこで何をどれだけ飲んだんだっけ? そもそも何で飲みに行ったんだっけ? さらに幸せな気分になるため? それとも憂さを晴らすため? ……そうそう、今日何かやることあったっけ?

天井を見ながら考えるともなく取り留めのないことを次々と頭に浮かべながら、いつ眠ったとも起きたともわからぬ、夢とうつつの間を行き交う。
昨日の酒席の風景を思い出しているが、これは思い出しているのか、それとも夢を見ているのか? そのうち、長いこと離れて暮らす実家の両親が私の二日酔いを諫めたり、もう何年も会っていない古い友人と飲んでいたりといったような、本当にあった記憶なのか、ただの夢なのかわからない"何か"に翻弄されるようになる。

そうしているうちに、ふと、舞台『夏の砂の上』(松田正隆作・栗山民也演出。以下、本作)は、主人公の小浦治(田中圭)のそんな夢と現のはざまを描いていたのではないか、と思った。
本作は、妻・恵子(西田尚美)と別居中の治が独りで住む家を、恵子を含め、様々な人物が入れ替わり立ち替わり、訪れては帰ってゆく、を繰り返す。

とある年の記録的な日照りが続く夏の一時期を描いた本作では、長崎に住む治の日常が淡々と続くだけで、物語的な盛り上がりを見せない。
長崎弁での日常会話が続くだけの本作は確かに物語的な盛り上がりを見せないが、しかし確かに物語であるのは、治以外の人物がほぼ唐突に無言で現れ、挨拶もなしに唐突に無言で去ってゆくことから明らかだ。

その唐突に現れ唐突に去ってゆくことが、本作が演劇であることを意識させる演出だと思っていたが、今の私のように、治が(二日酔いということではなく)夢と現の間を行き来していることを示唆しているのではないかと、ぼんやり思った。

本作の舞台が長崎であることは先述したが、観客にとって、それが強く意識されるのは、登場人物が長崎弁を喋ることでも、唯一の部外者である姪の優子(山田杏奈)が「東京ことば」を喋ることによる対比からでもない。
対比ではなく、部外者の「長崎に対するイメージ」そのものによって、観客各々が自ら「ここは長崎である」ということを意識している。
当たり前のことだが、優子以外の、長崎に生まれ育った人物は、日常生活の中で「ここは長崎である」と意識することなどない。
「ここが長崎である」と意識するのは、他所よそで暮らし始めた(る)恵子と陣野(尾上寛之)や、他所から戻って来た優子の母で治の妹である阿佐子(松岡依都美)のような者だ。
つまり、長崎ではない他所(たとえば東京)で上演される本作の観客だからこそ、本作の舞台が長崎であることが強く意識されるのである。

その、他所の観客が意識する長崎は「原爆が投下された」ということになろうが、しかし、その意識は主に「死者」に向けられてはいないだろうか?
それによって、今、目の前で(芝居ではあるが)長崎弁を喋る人物が「長崎で生きている」ことが意識されないのだが、本作が「生きている者」を意識していることは、唯一の他所者である優子によって表出される。

優子が「母の血を引いている」と言うとき、それはもちろん、母譲りの「男好き」に対する怖れでもあるが、それ以上に「(唯一の他所者である彼女が)被爆者の血を継いでいる」ことが強く意識されている。
母はその「血」から逃れるかのように「他所者」たちを求め、娘はその「血」を確かめるかのように地元の大学生・立山(三村和敬)と交わる(優子の「血」に対する想いは、立山といる時に負った傷と、その後の傷跡についてのやりとりで暗喩される)。
そこには、原爆投下が遠い過去になり、それによって多くの死者が出たことだけが強く意識されることしかなくなった現代において、しかし、いや、だからこそ、まだ原爆の(風評を含む)被害の恐怖に苛まれている多くの生者がいて、それは場所や世代を超えて永久に続くかもしれない、という強いメッセージが内包されている。

私が観た物語は、本当にある年の夏、治が経験したことなのだろうか?
或いは、記録的な日照りで断水が続く中、部屋にいるしかなくなった治が見た、夢か現かわからぬ"何か"かもしれない。

メモ

舞台『夏の砂の上』
2022年11月18日。@世田谷パブリックシアター

とても若いながらテレビや映画で既に「実力派」として認知されている山田杏奈さんの初舞台だという。
「母の血を引いている」といったセリフだけで、観客に「彼女も被爆者だ」と想起させるのを目の当たりにし、「実力派は伊達じゃないなぁ」。

この「被爆者の血を継いでいる」ことへの意識は現代でももちろんあって、この先永久に続くかもしれない。
長崎を舞台にした作品では、本作パンフレットに書いてあるとおり、本作演出の栗山民也氏が演出した舞台『まほろば』『母と惑星について、および自転する女たちの記録』(共に蓬莱竜太作)も現代の話だが「被爆2世/3世」が意識されている。
広島だと、漫画が原作の映画『夕凪の街 桜の国』(佐々部清監督、2007年)で、被爆者の息子である凪生がそれを引け目に感じて恋人と別れようとするエピソードが描かれている。


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