「iモード」をつくったのは? ー 「iモード公式サイト」来年終了と発表

※「iモード公式サイト」 本日、2021年11月30日終了
iモード自体のサービスは、2026(令和8)年3月末終了とのこと。
本稿は2020年10月15日に投稿しました。

子どもの頃、「〇〇寺をつくったのは誰?」「△△!」「ブブーッ。大工さん、でした」などと、屁理屈のような「なぞなぞ」が流行っていた。

2020年10月7日、NTTドコモは「iモード公式サイトの終了」を発表した。

「『iモード』をつくったのは誰?」
「iモード『サービス』」をつくった人といえば、「生みの親」と言われた松永真理氏ら、何人かの名前が思い浮かぶだろう。
その松永氏は、自身の著書『iモード事件』(角川書店、2000年)を、こう書き出している。

いつの頃からか、iモードの生みの親と呼ばれるようになった。
その度に、首を傾けながら「私ひとりが生んだわけではありませんから」と訂正を入れる。

松永真理著『iモード事件』

冒頭の「なぞなぞ」になぞらえた問題の答えは、「iモードをつくったのは、NTTドコモや携帯メーカ各社の『名もなき技術者』たち」である。

そんなわけで、「iモード公式サイト終了」のニュースに寄せて、「iモード端末を開発した『技術者』」たちにスポットを当ててみる。

引用するのは、『日経エレクトロニクス』2002.8.26号~2003.2.17号に、12回に渡って連載された「iモードと呼ばれる前」という記事である。
なお、出てくる方々の氏名は全て敬称を省略させていただき、会社や肩書については、引用元に従っていることを予めご承知置きください。


始まりは「コンパクトなブラウザ技術」

まだiモードという名称も、サービスの枠組みさえもなかったころ、その原型となる技術を開発していたベンチャー企業の技術者がいた。このベンチャー企業の先進性を見抜いたのがNTTドコモの1人の技術者だった。この2人の出会いがなければ今のiモードは存在しなかった。

「iモード」が従来の携帯電話と大きく違うのは、「ブラウザ」という「技術」が搭載されたことだろう。
NTTドコモは、このブラウザとして、「ACCESS」という会社の「Compact NetFront Browser」に目を付けた。

といっても、最初から乗り気だったわけではない。
ACCESSの取締役副社長 研究開発担当である鎌田のプレゼンを聞きながら、NTTドコモ 移動機技術部 主任技師の永田は、

うずうずしていた。「そんなに小さなメモリにブラウザが載るわけがない」と今にも口走りそうだった。鎌田の提示したメモリ容量は永田の常識を1ケタ下回っていたのである。

と懐疑的であり、そこで、『永田は鎌田を徹底的に問い詰める作戦に出た』。会議室は永田と鎌田のやり取りが続いた。

永田は押し続けた。
鎌田はこれまで体験したことのない異様な熱気を感じていた。(略)「こんな人がNTTにいたなんて。(略)」。鎌田は永田の威圧感に耐え切れなくなってきた。

このプレゼンの後も長期間に渡って彼らのやり取りは続き、その中で「Compact NetFront Browser」もまた成長していく。そして、

NTTドコモのアイデアとACCESSの技術が手を組んだことで、iモードは実現への大きな一歩を踏み出した。


サービス側の役者が揃う

大きな一歩はこれだけではなかった。

くしくもコンテンツ側でもNTTドコモの外部から「新しい血」が入ろうとしていた。社内の発想に限界を感じた榎の誘いを受け、リクルートを退社した松永真理は、1997年7月半ばに正式にNTTドコモの社員になる。その松永が呼び込んだ夏野剛も、ちょうどこのころから榎のグループに出入りを始めていた。

サービス側の役者も揃ってきた。そしていよいよ…

1997年8月。NECと松下通信工業の電話のベルが鳴る。


技術者が動き出す

(1997年)8月22日。NTTドコモからの指示に従って松下通信工業の加藤は、(略)永田に紹介され、ACCESSの(略)鎌田富久と初めて出会った。(略)
この日に永田が接触したメーカーは1社ではなかった。所は変わってNTTドコモの本社がある東京・虎ノ門の新日鉱ビル。NECの西山は上司に言われたまま、永田のお膝元に駆け付けた。

そして、富士通や三菱電機も加わり、それぞれのメーカーは「iモード」携帯の開発をスタートさせる。


技術者の工夫、そして遊び心

「百グラム、百ccを切ること」
 iモードを作るに当たって、榎はまず目標値を明確にした。
「音声通信にデータをのせるとはいっても、PDA(携帯情報端末)ではないんです」
(略)
「あくまで電話です。普通の携帯電話にしてください」
(略)
「普通の電話」にこだわった理由は、とにかく端末を安く、軽く、気軽に使ってもらうことが大前提になっているからだ。

松永真理著『iモード事件』

新しい技術ばかりの製品開発という難題に加え、NTTドコモの厳しいというか、「むちゃぶり」とも思える要求にも応えなければならない。
各メーカーの技術者たちは、それぞれ独自の技術・アイデアで難題に立ち向かっていく。そしてNTTドコモも、各社の良いアイデアを積極的に採用する。

「へぇ、ここまで小さくなるの」
製品の最終提案の場で、(略)松永真理は、三菱電機が提示したモックアップを不思議そうな顔をして手に取った。(略)
濱村らは、筐体を小型にするために、ボタンの数も減らした。これを可能にしたのが「イージーセレクター」と呼ぶ新型ボタンである。(略)
もう1つ、(略)知恵を絞ったのは「iモード」のサービスに接続する「iボタン」の位置だった。(略)
開発陣がたとり着いたのは、当時、三菱電機製の携帯電話機の特徴であった「フリップ」の表面を利用する発想だった。(略)
「これはいいね」
松永や榎啓一らNTTドコモ(略)の面々は、即座に濱村らの提案を受け入れた。

松下通信工業では…

そんな和田が、あることに気付いたのは半ば必然だったのかもしれない。和田は、ぼんやりとパソコンを眺めていた。どのパソコンも同じような形をしているのに、それぞれ何かが違っている。誰のパソコンかが一目瞭然だ。一体なぜだろう。
「そうか、壁紙だ」
(略)携帯電話機にも壁紙を張り付けちゃえばいい。(略)
和田のアイデアは、社内で大好評を博した。賛同した技術者たちは、ほかに山ほど業務があるにもかかわらず、目にも留まらぬ速さで、壁紙を表示するソフトウェアを書き上げた。NTTドコモの担当者も和田のアイデアに喜び、即座に機能追加の承諾が下りた。

技術者は難題をクリアしつつ、遊び心も忘れない。
携帯電話の待ち受け画像は、ユーザーの個性を表す。そのアイデアが、NTTドコモではなく、メーカー側から出てきたことが、とても素敵だ。


開発合戦

実際のNTTの交換機との接続試験である「交換対向試験」に一番乗りできたのは松下通信工業だった。
試験前、試作機の動作チェックしているときだった。

「ねぇ、もう、送っちゃおうか」
口火を切ったのはNTTドコモの担当者だった。
「え。メールをですか? まだそこまで行ってないですけど」(略)
「あ、ひょっとして自信ないの」

試作機がちゃんと動作する確信はなかった。『しかし技術者のプライドが、できませんとは言わせなかった』。
『じゃあ、思い切ってメール、送ってみようか』

突然、「わー」という叫び声が部屋中に響き渡った。内線電話のスピーカからである。(略)
慌ててNTTドコモの担当者が(メールサーバが設置された施設がある)神谷町のスタッフに話し掛ける。
「どうした、何事だ?」
「あの、急にメールが…」
神谷町のオフィスが驚きに包まれるのも無理はない。まだ誰も使うはずのないサーバに、予告もなくいきなり電子メールが飛び込んで来たのだから。

かくして交換対向試験は無事成功した。

NEC(略)西山耕平は、NTTドコモの担当者の発言に、なすすべもなく肩を落とした。半分予期していたとはいえ、現実を目の当たりにすることはつらかった。
(略)西山を待っていたのは、松下通信工業に後れを取ったという厳然たる事実だった。

しかし、落ち込んでいる場合ではない。
対向試験では後れをとったが、NECは製品で他社より上を目指していた。

「NECは、2つ折りのケータイで勝負したいと思っています」
(略)西山は、集まった面々を前に、こう切り出した。(略)西山をはじめ、NECの開発部隊は今回の製品に絶対の自信を持っていた。
-例の件、絶対に社外に漏らすな。

『例の件』とは画面表示サイズである。
NTTドコモの要求仕様書では、画面に表示する文字数を全角8文字x6行と規定していた。しかし、電子メール用途で使用するにはこの文字数では少なすぎるとNECは踏み、全角10文字x10行という端末の開発を進めていたのだ。

このように、各社がiモードに未来を賭け、しのぎを削っていた。
以下はNECの西山の言葉だが、各社、きっと同じ気持ちだったに違いない。

「大変だったのは、ウチだけじゃなかったとは思います。とにかく、製品で他社に負けたくなかったんです」

当然、各社の開発スケジュールは遅れに遅れた。
そして、運命の1999年1月25日を迎えることになる。


それぞれの1999年1月25日

「記者説明会」は一月二十五日と決まった。(略)
二部は記者たちにはお待ちかねの、広末のCM制作発表だ。(略)
このときの記者説明会の模様は、翌日のワイドショーをはじめ、週刊誌などで大々的に取り上げられた。
広末が黒のロングスカートを着て舞台に出てくるシーンや、黄色のロゴの前でiモードを持って立ち、にっこりと笑っているところは、(略)何度も放映された。(略)
会場の後方で進行を仕切っていた原田の目には、うっすらと光るものがあったという。

松永真理著『iモード事件』

この記者説明会の日を、各メーカーはどのように迎えたのか。

札幌のオフィスでパソコン画面を見つめた和田は、氷のように固まってしまった。画面いっぱいを占めるインターネットのニュース・サイトから目をそらすことができなかった。大写しになった写真に広末涼子の笑顔がまぶしい。片手には黒光りする携帯電話機。(略)
会場の熱気を伝える記事を目にして、和田は悔しさに唇をかみ締めずにはいられなかった。写真の中の広末涼子が手にした携帯電話機は、サービス開始に唯一間に合った端末だった。(略)。この日の会見では、NECと三菱電機も試作機を展示したらしい。しかし記事のどこを探しても「松下」の2文字は出てこない。(略)
それもそのはずだ。和田から見ても、自社の開発の進捗状況は、開いた口がふさがらない惨憺(さんたん)たるものだった。

松下通信工業は試作機を展示することが叶わなかった。しかし、展示できた三菱電機とNECとて、状況は松下通信工業と大差なかった。

本来は今日のイベントで、三菱電機製の端末も製品として紹介される予定だった。ところがソフトウエアの完成度がいま一歩及ばず、最後までNTTドコモの許可を得られなかった。

NEC(略)の西山耕平は、相変わらず無くならないバグに、この日も気をもんでいた。イベントのニュースをチェックするどころか、他社の動きに注目している余裕すらなかった。

では、広末涼子が手にした『黒光りする携帯電話機』はというと…

「よーし。ウチのケータイをヒロスエが持ってるぞ」
富士通(略)の片岡慎二がイベントの様子を知ったのは、翌朝のテレビ番組でだった。F501iを持つ広末涼子の姿が、各局のニュースやワイドショーで放映されるのを、チャンネルを切り替えて何度も確認した。
最初は現実味のなかった映像に、ようやく違和感が消えたころ、胸の奥底から熱いものが込み上げてきた。

NTTドコモにとっても、「説明会での涙」は説明会が成功したことだけを意味しない。

富士通の本部長宛に感謝の電子メールまで送ったというのは、NTTドコモの榎。

「富士通が端末を間に合わせてくれたおかげで2月中にサービスを開始できた。本当にありがたかった」
こう語る榎は、長い間富士通製の端末を自分用としてボロボロになるまで使い続けた。


技術者こそ華

iモードというと、松永や夏野をはじめとした「サービス側」で語られることが多い。しかし、それもやはり、「サービス側」の要求を実現するだけでなく、それ以上の製品を作ろうと努力する技術者がいたからこその話である。

「やっぱり、技術者こそが華なんです」
(略) 松永真理は当時をこう振り返る。松永や榎、夏野といったNTTドコモの面々は、彼女らを支えた無数の技術者の努力を今も忘れていない。
(略)
松永が今でも目頭を熱くするのはNECで端末の強度試験に立ち会った時のことだ。
「すみません。端末の落下強度に問題があります。液晶画面を大型化したため、ディスプレイ部分の強度が保てないんです。やり直しさせてください」
NECの担当者は、床に落とし、破損した端末を松永に見せた。
「やめてよ。そんなことしたら、どんな機械だって壊れるに決まってるじゃない。もういいかげん…」
「ダメです。このままでは御社の仕様を満たせません。やり直しです」
長年、出版畑を歩んできた松永にとって、信じられないかたくなさだった。傷ついた端末を前にして、松永ですらいたたまれない思いに包まれる。手塩にかけた製品を自らの手で破壊する技術者が平静でいられるはずがない。それでも一片の妥協も許さない技術者の姿勢に、松永の心は打ち震えた。


技術者の喜び

製品を開発した技術者の喜びとは何だろう?
もちろん、自社の売り上げや、クライアントであるNTTドコモに貢献できたことは嬉しい。
しかし、特にコンシューマ機器の技術者であれば、実際に誰かが使っているのを見掛けたときに技術者としての嬉しさを感じるのではないだろうか。しかもそれが「楽しそうに」「誇らしげに」であれば、なおさらだ。 
誰かが使ってくれている
 この想いこそが、技術者の喜びであり、誇りである。

JR京橋駅と京阪電鉄京橋駅とを結ぶコンコース(略)。
雑踏の中を急ぎ歩いていた和田の足がふと止まった。見慣れた携帯電話機を持った若者のカップルが目の前に立っている。女性が手にした携帯電話機を恋人らしき男性がのぞき込んでいる(略)
「あ、おまえ、これPやんか。かっこえーなぁ」
和田の心に温かい気持ちが満ちてくる。
「ほんまに使うてくれてるんやぁ」


終わりに

iモード誕生から20年以上が経った。
『1990年代の停滞した日本経済の中で、ひときわまばゆい光彩を放つ20世紀最後の大輪の花火となった』電話機型の携帯端末はいつしか「ガラパゴス」と呼ばれるようになり、気付けば、電話機能付きの「四角い箱」が世界中を席巻していた。

その「四角い箱」は、一人の天才の英雄伝として語られることが多い。
しかし、その英雄伝の裏には、数多くの「名もなき技術者」の努力があったことを忘れてはいけないのである。

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