舞台『骨と軽蔑』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)

自身の劇団などで作・演出したケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下、KERA)の過去作を別の演出家で上演する企画「KERA CROSS」シリーズのラストを、KERA自身が新作書き下ろしで飾る……しかも、女性キャストだけでると聞いて、あの、舞台『すべての犬は天国へ行く』(2001年)の救いのない物語を想って、ゾクゾクした。
そうして上演された舞台『骨と軽蔑』(以下、本作)は、もちろん『全ての犬~』とは全く違うが、やっぱり終始ゾクゾクしっぱなしだった。

舞台は『東西に分かれて内戦が続く、とある国の田舎町』にある、兵器産業で儲ける会社の社長屋敷。
テーブルやソファー、ブランコが置かれ、シーンによって中庭になったり、屋敷内になったりする。
物語は、病気で余命幾ばくもない社長を献身的に介護する秘書であり愛人でもあるソフィー(水川あさみ)、社長の妻・グルカ(峯村リエ)、長女で作家のマーゴ(宮沢りえ)、次女・ドミー(鈴木杏)、家政婦・ネネ(犬山イヌコ)、マーゴの熱心な読者・ナッツ(小池栄子)、マーゴの担当編集者・ミロンガ(堀内敬子)によって展開される。

ストーリーやシーンの説明、俳優たちの演技などが知りたい方には、既に多くアップされている記事等をお薦めするとして、私は自分が観劇しながら思った取り留めのないことを脈絡なく書いていくことにする。

本作、メルヘンチックでカラフル(といっても若干くすんだダーク・メルヘン)な色調の背景、照明、人物(キャラ)像、セリフ回しなど、KERA作品にしてはコントラストがかなり強い舞台となっている。
しかし、それら各々の輪郭がはっきりしているわりに、いや、はっきりしているからこそ、各人物の内面や人物同士の関係性(そこに流れる空気)の解像度が極端に低い。まるで、極太のマジックで描かれた輪郭線の中がはっきりした色ではなく、薄い水彩絵の具をわからないように何色か塗り重ねたような……

家政婦のネネが『なぜ同じ国の東と西でいさかいが起きているのかわからない』と言うのに対し、次女のドミーが『おんなじ人間の中で(すら)諍いが起きてる』と応えるが、そのやり取りが本作を的確に表している。
つまり、輪郭線が太すぎるが故に、ドミーが云うように各々の中の「統一されない自己の曖昧さ」が外界に影響を与えることも、逆に、受けることもできず、従ってそれが、ネネが云うように、他者との良好な関係性を阻害する。

もう一つ、解像度が低いのは、「時空(時間と空間)」の関係性だ。
これは物語冒頭から、いつの時代かわからない『とある国の田舎町』と、現代の今・ここ「(商業劇場が圧倒的に多い)日比谷」が、何の説明もなしに接続されていることからわかる。
さらに、マーゴとドミーの姉妹による「”前”から論争」は、「時空」の起点が曖昧にされていることから起こる(ちなみに「”前”から論争」は、『すべての犬~』の、犬山イヌコ演じる早撃ちエルザによる「いつ銃を撃ったのか論争(言い訳)」に通じる)。
この「時空」の曖昧さは、一幕においては主に、舞台と客席との間に起こっていた。
しかしラジオ局と屋敷の「時空」が繋がってしまう終盤から、幕間を経て5カ月経過した二幕において、それは舞台上にも波及し、ついに、室内と中庭の関係性や時間経過までもを曖昧にしてしまう。

物語は、「虫の妖精(幽霊?)」や「死神」の登場によりダーク・ファンタジー色を強め、そのまま『すべての犬~』とは(当然)違った結末を迎えるかと思いきや、最終的に私のゾクゾク感が更に増す展開となる。
本作パンフレットにおいて、シアタークリエでの初演出であることに触れ、KERAはこう語っている。

若手時代からずっと下北沢で芝居を上演していた僕が、初めて渋谷のパルコ劇場やシアターコクーンで作品を手がけるようになった時にも感じたことですが、明らかにこれまでの客層と違う人たちと出会うわけじゃないですか。ミュージカルを上演する商業劇場が圧倒的に多いこの土地で……「歓迎してもらえるといいな」と祈るような気持です(笑)。でも「これが受けるだろう」なんて合わせていくつもりはさらさらないし、やりたいようにやって、それが気に入ってもらえるといいなあと。

物語と『今・ここ「日比谷」』が接続されているのは、ある意味における必然である。

本作パンフレットに、2019年の「KERA CROSS」第一弾として上演された『フローズン・ビーチ』(1998年初演)を演出した鈴木裕美氏のコメントが載っている。

外側から見た『フローズン・ビーチ』は"殺し殺される物語"という印象が強かったが、内側から見たそれは"救い救われる物語"だった。

本稿を書きながら『すべての犬~』のビデオを最初から最後まで通して見直した。
"殺し殺される物語"として救いがないと思っていた作品は、実は「男がいなくなった町で、男たちの幻影を求める女たちを寛容に受け入れる"救い救われる物語"」であった(その、代替に縋る幻影だらけの共同体自体に救いがないといえばそうなのだが)。
そういった実体のある人間たちが対面で"殺し殺される物語"は、2001年4月に上演された。それから約5か月後に何が起こったか……

『すべての犬~』と同様に女性だけで演じられた本作は、明らかにそれらを経て、2024年現在へと接続されている。
報復による戦争を世論が後押ししてしまったこと、それらによって軍需産業が更なる発展をしたこと(今・ここ「日本」においても軍用機器の輸出が大きく緩和されつつある)。
本作においても、西側の武器製造会社を夫から相続したグルカが、「西側だけでなく東側にも武器を売って儲けている」と独白する。
現在の、主に中東における戦争・紛争において、敵対する両者に武器を提供する国があるとかないとか……

ラストの展開は、21世紀に世界で起こった全てが反映されている。
そして、唐突過ぎて(その時点において)やや拍子抜けしてしまったように感じた幕切れは、しかし、『今・ここ「日比谷」』で起こってもおかしくない。そう思い直して、気持ちがゾクゾクではなく、背筋がゾクゾクした。
劇場を出て見上げた空に多数の戦闘機が飛んているなんてありえない、と誰が断言できるだろう。

メモ

KERA CROSS 5 舞台『骨と軽蔑』
2024年3月22日 ソワレ。@シアタークリエ

『すべての犬~』は、男がいない世界において、女が男を代替していた。
つまり当時は女が男を必要としていたとも云えるが、2024年の本作はそれを必要とせず、「女」として戦場に赴くのである。
だから、仮に「生きている」としても「男の足」は必要なく、放置されるのみである(『すべての犬~』では、「体は死んだが、転がっていた足は丸太とつながれて元気に生きている」というブラックジョークになっていた)。

本作では代はされないが、代はされる。
『すべての犬~』において「男」の代用にされるのはチビという実体(男の代用に女装をさせて喜ぶ、という倒錯が起こる)であり、本作ではナッツが代する手紙の主という「虚構」(「虚構」が虚構のまま「実体」化する、という倒錯が起こる)となる。

「KERA CROSS」シリーズは、5本目の本作をもって終了となるらしい。

私はシリーズ5作、全て観劇した("note"に感想は書いていない)。


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