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KOKAMI@network Vol.20 舞台『朝日のような夕日をつれて2024』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)

リーインカネーション。生まれ変わりを私は、信じます。

KOKAMI@network Vol.20 舞台『朝日のような夕日をつれて2024』(鴻上尚史作・演出。以下、今作。過去作を含めた作品自体を、本作と記す)は、まさにそのセリフを体現した芝居だった。
1981年、鴻上尚史率いる「第三舞台」旗揚げで上演された本作は、40年以上に渡り様々な「生まれ変わり」を遂げてきた。
しかし、今作の「生まれ変わり」が特別なのは、そこに初演(つまり旗揚げ)時より共にこの空虚な時間を戯れていた大高洋夫と小須田康人がいない、ということだ。

前回公演となった10年前の2014年(KOKAMI@network Vol.13)のパンフレットで、大高はこう語っている。

ことの発端は、第三舞台の最終公演『深呼吸する惑星』(2011年)のちょっと後です。『深呼吸~』DVDの副音声を収録した時に、エレベーターで鴻上とコスちゃん(小須田康人)と3人になって「『朝日~』をやらないと、俺たちは終われないね」という話になりました。納得しましたね。そうかもしれない、と確かに思った。

だからその時、本作はある意味、「みよこ」と同じように自らの生を終わらせた。
そして、10年の時を経て、まさに今作が云う「遺伝子」によって「リーインカネーション」を遂げた。
その「遺伝子」の説明をする、2014年版に出演していた玉置玲央こそが「遺伝子」で、その「遺伝子」が持つ、一色洋平、稲葉 友、安西慎太郎、小松準弥という「4種類の情報」で、『朝日のような夕日をつれて』という生命を維持・進化させた(そしてその結果、「ゴドー」に色が付いた。表題の写真、左が2014年版、右が2024年版)。

「遺伝子」によって2024年に上演された今作はしかし、「変わらないからこそ変わってしまった」現実を突きつける。

朝日のような夕日をつれて、僕は立ち続ける
(略)
立ち続けることは苦しいから
立ち続けることは楽しいから
朝日のような夕日をつれて 僕は一人
一人では耐えられないから
一人では何もできないから
一人であることを認めあうことは たくさんの人と手を繋ぐことだから
たくさんの人と手を繋ぐことは とても悲しいことだから

そう囁く声で始まる有名な冒頭のシーンに鳥肌を立てながらしかし、私は「僕」が『立ち続ける』場所が、リアルではなく、ネット空間であることにゾッとした。

このネット空間において目まぐるしく高速で流れていくタイムラインの洪水の中、それらに流されないように一人で『立ち続けることは苦しい』。
失言や失敗をした人への非難がエスカレートするのを目の当たりにしながら、それに違和感を覚えたとしても『一人では耐えられない』し『一人では何もできない』。それに負けて『たくさんの人と手を繋』いでしまった瞬間、それが『とても悲しいこと』だとわかってしまう。
本当に『手を繋ぐ』ことは、場の空気に無条件に従ってしまうことではなく、「私」として『立ち続ける』者として、他の『立ち続ける』者たちを『認め合う』ことによるものだと、知っているにも拘わらず……

何年か前、SNSだったか動画配信サービスだったかを見る理由を若者に尋ねるアンケートの結果を伝えるニュースを見た。
確か理由のトップは「暇つぶし」だったと記憶しているが、私はこれに違和感を持った。
「若者は、あんなに一生懸命つぶさなければならないほど"暇"な時間があるのか?」
あいにく手元に辞書がなく(文章を書くなら辞書ぐらい持っているべきだと思うのだが)、ネット辞書で調べてみて面白いことを見つけた。

調べたのは「goo辞書」だが、「退屈しのぎ」を調べると『退屈をまぎらわすこと。その手段。ひまつぶし』とある。
しかし、同じ「goo辞書」で「暇つぶし」を調べると、「退屈しのぎ」という言い換えは載っていなかった(2024年8月現在)。
哲学者の國分功一郎は著書『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫、2022年)の中で、両者をこう区別している。

暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件・・・・・・に関わっている。
それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態・・・・・・のことだ。

本作はサミュエル・ペケット作『ゴドーを待ちながら』(1952年)をベースにしており、だから、ウラジミール=ウラヤマ(玉置)とエストラゴン=エスカワ(小松)は、「来る」と言われている「ゴドー」を待っている。
彼らは「ゴドー」が来るまでの間、『何もすることのない、する必要のない時間』を過ごす。
だから、「暇つぶし」として、(傍目に)馬鹿馬鹿しい遊びを「真剣に」行うことができる。
ここで重要なのは、「ゴドーを待っている」という「理由」があることで、その「理由」によって「暇つぶし」は正当化される。
これも、前出の2014年版パンフレットで大高が示唆している。

(『ゴドー~』という作品において)「人が二人で誰かを待っている」という時点ですでにドラマは始まっているのだという鴻上の解釈を聞いて、なるほどなと思いました。しかも、ゴドーが、来てしまう。二人も。

つまり、「ゴドーを待っている」ということそれ自体が「ドラマ」であるにも拘わらず、『ゴドーが、来てしまう。二人も』。
ゴドーが来てしまうと、「ドラマ」が終わってしまう。と同時に、ウラヤマとエスカワの「(楽しい)暇つぶし」も終わってしまう。
だから二人は、「自分はゴドーだ」と言い張る二人を「ゴドー」と認めたくない(それを認めてしまうと、『何かをしたいのにできない』という、
今の若者がスマホを見続ける理由としての「暇」という言葉でごまかしている「退屈」が暴き出されてしまう)。

逆に「そこに行くはずじゃなかったのに行ってしまった」ゴドーは、そこへ現れることこそが「ドラマ」なのであって、だから、ゴドー1(安西)、ゴドー2(稲葉)の登場シーンは、共にドラマチックだ(ゴドー1は、物語中盤なのにも拘わらずエンディングのようだし、「我愛你」(135)をバックにゴンドラで降りてくるゴドー2のモノローグ後の「ゴドーだぞ!」「きさま!」というゴドー1とのやり取りはカッコ良い)。

本作の「果てしない暇つぶし」は「モラトリアム」を反映したものだとも評される。

本作初演(=第三舞台旗揚げ)の1981年に文庫化された小此木啓吾著『モラトリアム人間の時代』(中公文庫)の「文庫版前書き」を、小此木はこう書き始めている。

昭和46(1971)年に、「モラトリアム人間」という言葉を私がつくってから、はやくも10年経った。その当時私は、モラトリアム状態を楽しんでいて、いつまでもおとなになろうとしない青年期延長型の人間をそう名づけたのである。

その10年の間に青年は「モラトリアム人間」のまま、社長になり、部長になった。

……と、ここまでは、観劇前に『朝日のような夕日をつれて'91』のビデオを見返しながら漠然と「頭で考えていた」ことでもある。

しかし、実際に生で今作(2024)を観て、改めて本作は「頭ではなく感情が揺さぶられる」のだと痛感した。
前述した冒頭の場面もそうだし、ゴドー1、2が舞台両脇で椅子に座って静かに言葉を交わす場面で、理由もなく泣きたくなったのには自分で驚いた。
いや、違う。
泣きたくなったのは、突然そこが「みよこ」の脳内に見えたからで、何故そう見えたのかの「理由」がわからないのだった(もちろん、事前にストーリーを知っていたからこその「みよこ」の脳内ではあるが、そこで思い出したこと、それ自体の「理由」がわからないのだった)。

そこから先、私は「みよこ」の手紙(と、あえて書く)が群唱されるのが怖くなった。

80年代から雑誌編集者として当時の劇団公演を数多く観てきた小森収は著書『小劇場が燃えていた【80年代芝居ノート】』(宝島社、2005年)において、本作について、こう記している。

(前略)男たちは、なんらかの形で、みよこという女性を大切にしようとしている。(略)男たちは、大切にしているみよこの、凍えるような寒さを気づかない。「朝日のような夕日をつれて」の軽やかでにぎやかな明るさは、この気づいていないということ(あるいは、気づきたくないということ)の表象であろう。最後の手紙で、みよこの決意を知った男たちは、立ちつづけることを決意する。

私が恐れたのは『男たちは、立ちつづけることを決意』しないのではないか、というか、そのセリフを私が信じられないのではないか、ということだった。

それに先立ち、少年=医者(一色)によって、観客がいるのは劇場ではなくバーチャル空間=「一人の女性の脳内」であることが明かされる。

彼女は今、あなたの目の前に横たわっています。
静かな微笑みに包まれたまま、彼女は眠っています。
ですが、ひとたび目を覚ましたとたん、また彼女は……
いつもの笑いのない笑いの世界に帰っていくことでしょう。
誰にも手の届かない、一人だけの世界……

劇中で2024年の「立花トーイ」が開発する「META LIFE」のテストと称して「みよこ」の脳内のデータをインプットしたと明かされる。
では、「META LIFE」の中の「バーチャルみよこ」は、リアルな本人がしたためた手紙のような絶望をしないのか?
私はそれを考えていた。
結論としては、絶望する、だった。
「バーチャルみよこ」はリアルな本人とは違い、死なない。しかし、絶望する。それは永遠に繰り返される。
「バーチャルみよこ」が繰り返す、「生」と「絶望」の端境期、そこはまさに「永劫回帰」だ。

すべてが永劫回帰するということは、来世があるということではなく、まさにその反対である。同じ事が繰り返す以上、この今生きている現世しかない。それがどんなに悲惨で不幸なものであっても、それ以外の可能性は存在しない。そして、それを嬉々として肯定して受け入れるのである。同じことが永遠に繰り返すということは、逆に、一回きりしかない、ということだ。どこにも別の人生の可能性などないのである。

竹内薫+竹内さなみ著『シュレディンガーの哲学する猫』(中公文庫、2008年)

「朝日のような夕日」とは、朝日と夕日が円環しているのではない。劇中でも語られるとおり、それは夕日であり朝日である(「朝日でも」ではない)。

恐れていたことが起こってしまった。
私は「みよこの手紙」の群唱に「永劫回帰」を見た気がして恐怖に陥る。

永劫回帰の教えにおけるもっとも重い本来的なものは、まさに永遠は瞬間にあり・・・・・・・・ということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目前を疾走する刹那とかではなく、将来と過去との衝突であるということである。
(『ニーチェⅠ』ハイデッガー、細谷貞雄監訳、杉田幸一・輪田稔訳、平凡社)

同上

我々が生きる「モラトリアム」の状態が、『「なんかある」と信じ続けているのはあまりにもおめでたく、不毛な、無いものねだりのよう』だと気づいたみよこは、『ユートピアなんか初めから、真理なんてずっと昔から無いのだから』『それは、途方も無い寂しさ』で『この寒さを埋めるために』『また何かに縋るのかと思うと、寒さを超えた激痛が走った』と綴るが、2024年に生きる若者たちは、それが「デフォルト」であることを知っている。

だからこそ、男たちは群唱を止めない。

この宇宙は分子によって成立している
どんなに多くても有限な分子によって成立している
だとすれば
有限な分子が有限な組み合わせを無限な時間の内に繰り返したら
もう一度あの時と同じ分子が出来上がる
その時私はあの時と同じ状態でそこにある
その時の私は私でなくなったあの瞬間に真っ向から立ち向かおう
何にも頼らない、何にも待ち続けない固有の人間として
私は私の歌を引き受けようと決めたのです

男たちは、『その時の私は私でなくなったあの瞬間』、つまり「永劫回帰」に『真っ向から立ち向かおう』と決意する。そしてその方法は、2024年のデフォルトである『何にも頼らない、何にも待ち続けない固有の人間』であることを『引き受け』ることで、つまりそれは、「ネット上のタイムラインに埋没せず、一人で立つこと」を意味する。

リーインカネーション。生まれ変わりを私は、信じます。

リーインカネーション=生まれ変わりは死を意味しない。
『私でなくなったあの瞬間に真っ向から立ち向か』うことによって、自らを「永劫回帰」の外へ弾き飛ばす。
弾き飛ばされた「私」は、男たちの群唱に受け止められる。


メモ

KOKAMI@network 舞台『朝日のような夕日をつれて2024』
2024年8月23日。@紀伊國屋ホール

紀伊國屋ホールは、80年代に出会った者、90年代に出会った者、2014年に出会った者、そして今まさに出会おうとする者でごった返し、「老若男女の坩堝」状態だった(古くからの方々はきっと「THE END OF ASIA」(YMO)のオープニングに涙したことだろう。まさか、40年の時を経てこのシーンが観られるなんて)。

本文で、『ゴドー1、2が舞台両脇で椅子に座って静かに言葉を交わす場面で、理由もなく泣きたくなった』のは『「みよこ」の脳内が見えた』からと書いたが、実はもう一つある。
本作再演(1983年)から鴻上氏の「ごあいさつ」には一人の女性が登場する。

その時僕は女性と二人で電車に乗り、とりとめのない話をして時間つぶしをしていました。(略)
二人は迷っていたのです。
いえ迷っていたのは僕だけで女性は待っていたのかもしれません。(略)
電車が彼女の降りる駅についた時、彼女の手がすうっと僕の手にのびてきました。

'83年版

結局、彼女は電車を降り、鴻上氏は発車した電車に揺られた。

ドアが閉まった時、僕をおそった感情は、安堵でも安心でもなく、"据え膳食わぬは男のロマン"という有名な言葉でもなく、ただホームに降りてしまったもう一人の僕がたどる、もう一つの人生へのいとしさでした。

同上

そして、'85年版には彼女と再会したことが綴られている。

しかし僕は、彼女と話しているうちに何故かとても悲しくなったのです。それは、彼女の「何か」を待って待ちこがれている「渇き」が、「何か」によって満足してしまったからというよりも、彼女が「渇き」を持ち続けることに疲れてしまったからじゃないかと思えたからです。

'85年版

今作観劇前にこれを読み返してしまった私は、つまり、「電車に残った僕と、ホームに降りてしまった僕」をゴドー1、ゴドー2に重ね、『「渇き」を持ち続けることに疲れてしまった』彼女を「みよこ」に投影してしまったのだと思う(ちなみに、上記は「ごあいさつ」を集めた『鴻上尚史のごあいさつ 1981-2019』(ちくま文庫、2020年)から引用しているが、その中で鴻上氏は『後から思えば、彼女はずっと「渇き」を持ち続けていたのだと思います』と振り返っている。

ところで、「AI VTuber」にエスカワが付けた「林田リンダ」という名前を聞いて私はTHE BLUE HEARTSの名曲「リンダリンダ」ではなく「キスしてほしい」(1987年)を思い出していた。
この曲がリリースされた当時の私は、キスに憧れているティーンエイジャーだった。
だから、KOKAMI@network Vol.6『リンダ リンダ』で、恋人に振り向いてもらえない女性が切実に歌う「キスしてほしい」を聞いて「こんな曲だったのか」と衝撃を受け、泣いてしまったのである。

それは『リンダ リンダ』があっての2024年版の話だが、逆に、少年=医者のエピソードは、個人的には『トランス』(鴻上尚史作・演出、1993年初演)の紅谷礼子のモチーフになっているのではないかと思ったりする。

なお、本文中で引用したセリフは、2000年代初頭にNHK-BSで放送された「朝日のような夕日をつれて '91」を録画したビデオから、引用者が書き起こしました。本作との相違とともに、聞き間違いによる誤記があるかもしれない旨、ご了承ください。
元々VHSに録画したもののためクオリティーが低くて上手く聞き取れないのだが、'91年版で登場するVRのヘッドマウントゴーグルの名称が「あいほん(iPhone)」に聞こえてしかたがない(本当の名称は知らない)。

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