酒飲み・角田光代

連休初日から二日酔いである。

そんなわけで、布団の中で『泥酔懺悔』(ちくま文庫)をパラパラ捲る。
手元にあるのは、2016年の第一刷のもの。

帯には、大きく『お酒のせいなんです!!』と書いてある。

お酒の席は飲める人には楽しく、
下戸には不可解……。
女性作家によるエッセイ12連作。

寄稿している女性作家は、朝倉かすみ・中島たい子・瀧波ユカリ・平松洋子・室井滋・中野翠・西加奈子・山崎ナオコーラ・三浦しをん・大道珠貴・角田光代・藤野可織。
この中には、中島たい子や中野翠のように下戸の人もいるが、自らが酒飲みである作家もいる。
例えば、角田光代。彼女のエッセー「損だけど」を引用する。

大人になって酒を飲むようになると、その存在は年々、年々、日常になくてはならないものになった。二十代の半ばには、酒がない一日というものが考えられなかった。

激しく同意する。さらに……

しかしながら、私には酒にかんして弱点がある。
飲みはじめたら、途中でやめるということができないのである。どうしてもどうしても、できない。それこそ二十年近く、きりのよいところで飲むのをやめようと試みて、できない。逆立ちで歩けないように、できない。とことん飲むしかない。

激しく共感する私は、だから、家飲み(しかも独り)なのに二日酔いなのである。

ところで角田はその結果どうなるのか。

とことん飲む過程で記憶がなくなるのである。ある一定量飲むと、その後のことを覚えていない。
(略)
泥酔して、気づいたらまったく知らない部屋にいたり、知らない人といたり、ということを、酒を飲まない人や記憶のなくならない人はフィクション的にとらえているが、ごくふつうにある。

なくすものも多い。信頼や友情をなくしている場合もあるのかもしれないけれど(略)。
なくすものは、もっとはっきりわかる物品である。
(略)
いちばん謎なのは、ジーンズがなくなったこと。気がついたらジーンズをはいていなかったわけではなくて、クロゼットに見当たらず、家じゅうさがしても出てこなくて「なくした」と気づいたのである。家のどこにもなければ、外にある。外でなくす、といえば酔っ払っているときしかあり得ない。しかしジーンズを脱いでどのように帰ったのか。

さすがにジーンズはないが、携帯・スマホとかはしょっちゅうある。
スマホをなくしたときは、飲んでいたところから電車で15分ほどの降りたことのない駅近くの交番に届けられていたことがあった(拾った人が、わざわざ遠くの交番に届けたわけではなく、本当に駅近くに落ちていたらしい)。
駅も、道も、全く記憶になかった。

夢中で話しても、泥酔後だと忘れていることが多いので、おんなじ話を何回もしたり、おんなじ質問を何度もしたりすることになる。(略)。一度友人に「なんだか前に話した時間が存在しないみたいでさみしいね」と、(嫌みではなく)しみじみと言われたことがあって、本当にそうだ、と思った。話しても話しても、あるところに戻ってしまう。(略)。そういうとき、双六で後戻りしている気がする。人より確実に損をしている。

これもよくある。私自身は(真面目に)初めて話しているつもりなのに、「それ、いつも言うよね」などと、しょっちゅう指摘される。

ちなみに、角田は、2014年4月15日にBSテレ東で放送された『酒とつまみと男と女』という番組で、西荻窪の立ち飲みの焼き鳥屋で飲みながら、このエッセーに書かれているエピソードなどを披露しながら、

ある方が、「人に迷惑をかけちゃったり、飲み過ぎちゃったな、と後悔することには、慣れるしかない。慣れて麻痺するしかない。もうこれでいい、って開き直るしかない。反省しなくていい!」って言われて、なんかスーッって楽になって……。
その先輩の言葉を聞いてから、結構私も平気になった。いいやもう、みないな。去る人よ去れ!
25年くらい、できないんだから…その…途中でやめるとか、セーブして飲んで「誰にも迷惑かけてないな…よし!」って確認して帰るとか。ずーっとやろうとしてできないんだから……
二十何年あれば人って何でもできるでしょ?料理もできるようになるし、水泳だってできるようになる……のに、「ほどほどでやめる」っていうことができないんだったら、もう、諦めたって

『酒とつまみと男と女 <西荻窪界隈>』(BSテレ東。2014年4月15日放送分)

と力強く言い放ち、全国の酒飲みたちの気持ちを楽にさせた(かどうかは定かではない)。

さて、エッセーに戻り、先に引用した『人より確実に損をしている。』のあと、角田はこう続けるのである。

でもしかたない。必要なのだから。

そう、必要なのだ。
だから私は、布団から出て、二日酔いでヘロヘロであるにも関わらず、今日も近所の酒屋へ行くのだ。

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