映画『コットンテール』(特別先行上映 舞台挨拶あり)

映画『コットンテール』(パトリック・ディキンソン監督、2024年3月1日公開予定。以下、本作)のことを書くのに、やっぱり、ここから始めようと思う。

舞台挨拶でパトリック監督自身が言及したとおり、本作は映画『ぐるりのこと。』(橋口亮輔監督、2008年)のオマージュでもある。
2023年末にCSの衛星劇場にて放送された『「ぐるりのこと。」製作15周年記念 特別座談会』という番組でリリー・フランキーが明かしたところによると、(日本に留学して映画製作を学んだ英国人の)パトリック監督は、『ぐるりのこと。』の大ファンで、明子役に木村多江を熱望し、彼女のスケジュールが合わないと知ると、英国で撮影予定だったシーンを日本で撮るために、現地スタッフとともに来日したという。
兼三郎と明子の関係は、そのままカナオ(リリー)と翔子(木村)に繋がっていると考えるのは自然なことで、だから、たとえば若年性認知症で徘徊していた明子を抱きしめる兼三郎は、完全に台風の夜の翔子とカナオとシンクロする。
あの日、翔子は『どうしていいか、わかんない。(略)離れていくのがわかってんのに、どうしていいかわかんない。(略)ちゃんとね、ちゃんとしたかったの。でも、ちゃんとできない』と激しく泣きじゃくったのだった。

60代の作家、大島兼三郎(リリー・フランキー)の最愛の妻、明子(木村多江)が、闘病生活の末に息を引き取った。埋めようのない喪失感に打ちひしがれた兼三郎は、生前の明子が寺の住職に託した一通の手紙を受け取る。そこには明子が愛したイギリスのウィンダミア湖に、遺灰をまいてほしいという最後の願いが記されていた。兼三郎は遺言を叶えるために、長らく疎遠だった息子の慧(錦戸亮)とその妻さつき(高梨臨)、4歳の孫エミとともにイギリスへ旅立つ。しかし互いにわだかまりを抱えた兼三郎と慧は事あるごとに衝突し、単身ロンドンから湖水地方に向かった兼三郎は、その途中で道標を失ってしまい……。

本作「あらすじ」

本作、とにかく「ちゃんとできている」のである。
約90分の本編、全く、本当に1カットも無駄なシーンがない。
だから、特に序盤は短いカットがブツ切れでつながれているし、現在と回想がシームレスにつながっていたりするが、それらの全てに意味があり、だからセリフや字幕で説明しなくても、「ちゃんと」「わかる」のである(念のため断っておくが、それは言葉として安易に多用されがちな「伏線」とか「その回収」とかを意味しない。冒頭の「蛸」のシーンから英国の駅の「自転車」に至るのは、別に伏線回収ではない)。
「ちゃんと」「わかる」のは、言葉ではなくて「表情のアップ」を的確に捉えているからで、特にリリー・フランキーの表情は、セリフなんかより断然雄弁である。

公開前だから、本編について詳しくは書かないが、ひとつだけ。
何故、兼三郎はウィンダミア湖に行き急いだのか?
個人的な感想を云えば、恐らく彼は明子を「一刻も早く楽にしてあげたかった」のだろう。
さらには、「明子が明子である記憶のうちに、明子を葬送したかった」のではないか。
「思い出」という意味では散骨を先延ばしにする方が良いという考えは、恐らく兼三郎にとっては逆で、明子だけでなく人間自体が時間が経つと忘れる生き物なのだ。
どんなに忘れないように努力しても、時間が経てば記憶が薄らいだり改変されたりしてしまう。
兼三郎にとって、それはもう「明子ではない」のだろう。

先に「本作は伏線の回収ではない」と書いた。
「回収」されるのではない。
ラストシーンにおいて、記憶と家族が「更新」されるのだ。
更新された記憶と家族の中で、「その時の明子」は生き続けるのである。

メモ

映画『コットンテール』
2024年2月13日。@新宿ピカデリー(特別先行上映、舞台挨拶あり)

本作を観た後でも、観る前でも構わないが、『ぐるりのこと。』は観ておいて損はない。

日本人の物語であっても本作が海外製作なのはスタッフロールの長さでわかるが、スタッフの中に「NURSE」とあって「さすがに海外製作だな」と思っていたら、その真下には「COVID SUPERVISOR」とあって、つまり本作がコロナ禍真っ最中に撮影されたことを示しているのである。

上映後、映画館を出ようとしてピンク色カツラを被った派手な人をチラリと見かけた。もしかして、新宿タイガーさんだったのだろうか……


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