2022年に舞台『ショウ・マスト・ゴー・オン』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)

21世紀になって、あの東京サンシャインボーイズの名作舞台『ショウ・マスト・ゴー・オン』(三谷幸喜作・演出。以下、本作)が生で観られるなんて!

私は三谷幸喜氏がかつて主宰していた劇団「東京サンシャインボーイズ」に間に合わなかった。
私が上京した1991年に初演された本作だが、その時すでに「日本一チケットの取れない劇団」だったし、3年後の再演時には劇団は解散を発表していたからだ(しかも本作再演は座席数400の紀伊國屋ホールだったし、最終公演も、3ヶ月のロングランとはいえ、座席数155の新宿シアタートップスだったしで、チケットなんか取れる訳がない)。

だから私は、本作をビデオで観た。観て驚いた。
私は爆笑しながら号泣していた。
「爆笑の後に号泣」ではない。「爆笑しながら号泣」したのだ。

本作は伝説的作品であり、今回もかなりのステージ数で常に満席なので、検索すればいくらでも出てくる作品情報は省略するが、登場人物の性別や役割が変わっていたり、それに伴って若干の人物の増減があったり、公衆電話がスマホになっていたりはするものの、ストーリーは1994年の再演版とほぼ同じだ(迷子のダニエルさんが最終的に東北新幹線に乗ってしまうのも同じ)。

それにしても、30年前にこんな作品を書けてしまう(しかも以降の作品でもクオリティーが落ちない)三谷氏の才能に改めて驚愕してしまう。
しかし、当然ながら30年前とはその「才能」の本質が異なっていて、それは作品のクオリティーや方向性といったものではなく、三谷氏の「作品へのポリシー」が変わったということだと思う。

私は本作を観ながら、他の観客たちと一緒に何度も爆笑した。終演後は、他の観客たちと同じように満足した表情で劇場を後にした。
しかし私は、「爆笑しながら号泣」できなかった。
誤解がないように断っておくが、これは批判ではない
「爆笑しながら号泣」できなかったことこそが、三谷氏の「作品へのポリシー」が変わった、ということなのだと言いたいのだ。

私がかつて「爆笑しながら号泣」したのは、スピーカーケーブルが断線したためにいくさのシーンを舞台袖にいる人たちで実演するシーンだ。
再演版では行進の後に戦のシーンになだれこむのだが、そこに至るのは、何だかわからない、説明のつかない「パッション」に突き上げられたからだ。

そして、目の前にいる役者によるパッションを体感した観客は、コロナ禍を経た現在に引き付けて云えば「不要不急でしかない”たかが芝居"」を「何故演るのか」「何故観るのか」に対するある意味での回答を、「言葉」ではなく、(「共犯関係」とも云える)「想い」で共有するのである。
それに共感できたのはきっと、「小劇場系劇団」の熱さが残る時代の気分であり、座席数400程度の劇場の密室感が色濃く反映されていたからではないか。

私は東京サンシャインボーイズ解散後の三谷氏の舞台に足繁く通ったが、ここ数年は遠ざかっていた。
それは決して三谷氏の作品が「つまらなくなった」からではない。
むしろ作品自体は「面白くなった」のではないか、とも思う。
しかし、その「面白くなった」点が、私には「合わなくなった」のだ。

現在の三谷作品の「面白さ」は、劇場に集った観客全員が、一人も脱落することなく、観客各々で大きな差異が出ることなく、確実に理解・共有できる点にある。
それは、ごく少人数キャパの劇場なら可能かもしれないが、今回の世田谷パブリックシアター約600人の観客全員が「一人も脱落することなく」爆笑できて、機嫌良く劇場を後にできる作品を書ける作家は、日本だけでなく世界中探しても三谷氏以外にはいないのではないか。

ドラマや映画(ハズレなし、というのも驚異的だ)に加え本人自身がメディアに登場することによって広く大衆に認知され、それによって普段は劇場に足を運ばない人たちが訪れるようになったことと関係があるだろうが、三谷氏はそういう人たちのために舞台を創っているのだと思う。
それは「嫌々」ではなく、むしろ自身から仕掛けているはずだ。

普段は劇場に足を運ばない観客を「一人も脱落させず、確実に満足させる」ために、本作は「理性的」(「論理的」ではない。むしろ本作は論理的には破綻している)になった。
だから、たとえば七右衛門のような奇抜ーというか、進藤と木戸以外の人物は皆どこか変なのだがーな人物が登場しても、そのキャラから逸脱することなく、「そういう人」として理性的に振る舞う。
人物が理性的に振る舞うからこそ、論理的に破綻しているデタラメなハプニング続きの物語であるにも拘わらず、観客は「一人も脱落せず、確実に満足できる」のである。
(幕開け早々の、のえのセリフが伏線となってそれが回収されることにより、説明なしに進藤(と観客)の疑問が解消される幕引きは、お見事!と言うしかない。さらにその真実を進藤が受け入れることにより、観客はモヤモヤを引きずらず劇場を後にできることまで完璧に計算されているところもサスガ!)

物語で次々襲い掛かるハプニングには論理的関連性はないが、各々のハプニングは「説明可能(理性的)な偶然性」で誘発される。
今回、スピーカーケーブル断線の原因までちゃんと説明できているのに感心したのだが、そこまでの細かい配慮があるからこそ、観客は一人も脱落しないのである。

登場人物が理性的に振る舞い、「説明可能な偶然性」によって展開する物語においては、必然、説明のつかない「パッション」は排除されることになる。
登場人物たちは、スピーカーケーブルが断線したから行進の音をやらざるを得なかったのであって、だから、そこから「パッション」は発動しない(故に、ほぼ行進のみのシーンとなっている)。
発動しないのは「パッション」が説明不能だからでもあるし、3階席まである広い劇場では共有できないからでもある。

私はかつて、このどうしようもないほど馬鹿馬鹿しい危機を馬鹿馬鹿しいほどの熱量で乗り切ろうとする演劇人たちの滑稽な姿に爆笑し、同時に、馬鹿馬鹿しいほどの狂気で乗り切ろうとする演劇バカたちの愚かしさの中にある、画面越しでも伝わってくるほど強烈に燃えたぎる愛おしい「パッション」に号泣したのである。

私は物語にのめり込み爆笑し、気分良く劇場を出たが、一方で物足りなさも感じていた。
私はどこかで、フィクションが持つ愛おしい「パッション」を求めていた。

念を押すが批判ではない。
これは単なる私の個人的な嗜好であり、作品の良し悪しとは無関係だ……と説明するために、ここまで長々書いてきた。
改めて言う。
こんな凄い作品を書ける作家は、日本だけでなく世界中探しても三谷氏以外にはいない。


メモ

舞台『ショウ・マスト・ゴー・オン』
2022年12月10日 ソワレ。@世田谷パブリックシアター

本文で、「東京サンシャインボーイズ」に間に合わなかった、と書いたが、実は一度だけ劇団公演を観たことがある。
"事実上の解散"から15年後の2009年、新宿シアタートップスが閉館する際に「さよならシアタートップス」と銘打ったイベントで上演されたのが東京サンシャインボーイズ再集結『returns』である(「さよならシアタートップス」では昼・夜様々なイベントが行われていたが、『returns』はその期間である12日間、イベントが終わった後の21:30から1時間上演された(最終日のみ18:30開演))。
芝居が終わったあと、気になることがあった。
客演の吉田羊さんが「新しい仲間」と紹介されたこと。
終演のアナウンスが「これより15年間の休憩です」だったこと。

1994年、東京サンシャインボーイズは解散した。
しかし私がしつこく"事実上の解散"と書いているのは、解散にあたり、三谷氏が『30年の充電』と発言したからだ。
WOWOWで放映された『returns』の記録映像で三谷氏は、『30年の充電というのは半分言葉遊びみたいなもので、30年後に本当に集まる気はさらさらなかった』と発言した後、こう続けた。
『15年経って1回集まったことによって、たぶん次の15年後は本当にやるような気がしますね』

「次の15年後」まであと2年と迫った2022年。
劇団の人気作であり名作とも云われた芝居が、劇団名義でないにしろ再演された。
時を同じくして、WOWOWで先のインタビューが収録されている『returns』が再放送された。
もしかすると、もしかするのではないか?

(2024.07.12追記)
報道によると、本当に再復活するらしい(ただし、2024年ではなく翌年)。

三谷は「これを機に劇団を再結成するわけではありません。(2025年上演予定の)『蒙古が襲来』の公演が終わり次第、再び充電期間に入ります。その次の公演は80年後、2105年に行います。今世紀最後となる東京サンシャインボーイズの公演を、ぜひお楽しみに!」とコメント。

「ステージナタリー」
2024年7月11日配信記事

おまけ:ショウ・マスト・ゴー・オン

以前の拙稿で、三谷氏が『自分の作品が自分の関わらないところで上演されるのを望んでいない』ため外部上演の許可を出さない、と書いた。
その理由を三谷氏本人は、唯一出版された『オケピ!』の戯曲本の中で、『僕が一生懸命書いたホンが知らないところで勝手にアレンジされ、自分らのやりやすい形に書き直されて上演されるなんて、考えただけでも、憂鬱になります』と説明している。
換言すればそれは、「僕が一生懸命書いたホン」について自身が全ての責任を負う、という矜持きょうじである。
今回の公演、開幕時からコロナ禍の影響や出演者のアクシデント等が続いているが、三谷氏は「自身が代役として舞台に立つ」ことで出来る限り幕を開けようと奮闘している。
まさに『ショウ・マスト・ゴー・オン』
三谷氏の強い矜持の表れである。


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