小劇場系演劇ファン必見の映画~映画『よっす、おまたせ、じゃあまたね。』~

もしかしたら、「心残り」をたくさん残して死んだ方がいいのかもしれない。

映画『よっす、おまたせ、じゃあまたね。』(猪股和磨監督、2023年。以下、本作)を観ながら、そんなことを考えた。
本作は、「なかないで、毒きのこちゃん」という劇団が2021年に上演した舞台『7丁目のながふじくん』を、劇団の主宰者であり作者の鳥皮ささみこと猪股氏自らがメガホンをとって映画化したものだ。

静岡県に住む30歳・ニート・引き籠もりの"ちばしん(橋本あつし)"の元に突然、小学校の同級生"ながちん(稲葉ゆう)"が20年ぶりに借りパクしていたゲームソフトを返しに訪ねてくる。
"ながちん"は『俺の死体を一緒に見てほしい』という不思議な言葉で、"ちばしん"を東京・下北沢にあるアパートまで、強引に連れ出す。

この「あらすじ」からもわかるとおり、構成は「(青春)ロードムービー」+「死者が所縁のある生者に会いに行く幽霊モノ(怪談に非ず)」で、道々出会う人々は個性的だが、物語は素直にストレートな「青春物語」となっている。

私はオリジナルの舞台を観ていない(どころか、申し訳ないことに劇団自体を存じ上げなかった)が、本作パンフレットに(何故か)掲載されている舞台版の上演台本をチラリと読む限り、映画版だからと大きな変更は加えていないように思える。

そのため、本作は「映画」というより「(小劇場系の)演劇」を観ている感覚になる。猪股監督は自覚的にそうしていると思われ、出演者リストを見れば、それらの演劇が好きな人がニヤリとしてしまうような俳優が名を連ねている(ロードムービーという性質上、道々出会う人々という感じで、各々わずかなシーンでの出演となっている)。

たとえば、"ちばしん"の父親に入江雅人(劇団SHA・LA・LA)、"ちばしん"をハニートラップにかける女性を安部おと(劇団4ドル50セント)、それ以外にも、柿丸美智恵(毛皮族)、亀岡孝洋(カムカムミニキーナ)など劇団に所属していたり、森田ガンツなど小劇場系の演劇好きなら必ずどこかで観たことがある俳優が各々の個性を生かした演技をしている。
特に、"ちばしん"の母親・千葉雅子、駆け落ちタクシーの運転手・中村まこと、「にんじんしりしり屋」のオヤジ・市川しんぺーという「猫のホテル」の3人の破壊力は凄まじい。

それはさておき、上で本作は「演劇」を観ている感覚になると書いたが、ロードムービーに至るまでの導入部にイマイチ入り込めなかった。
それは私がこの劇団を知らないからということもあるが、それ以前に、まだ本作を「映画」として観ようとしていたからだろう。
「演劇」として観ればいいのだと気づいたのは、ハニートラップとその顛末にショックを受けた”ちばしん"が怒って東京行きを拒んだときに、唐突に話し始めた"ながちん"を、ずっと映していたシーン。

冷蔵庫の下が自分が思っている以上に汚くて、ああ、年に1度ぐらいは掃除しておけばよかったな、って思ったんだよ。
それから、奥の方に乾電池が落ちてるのが気になって(略)
その後に「洗濯物をすぐ干さなかったから臭くなるだろうな」とか(略)「音楽がリピートで流れてるから恥ずかしい気持ちになりそうだな」みたいなことを、妙にゆっくりと頭の中で考えてしまって。

つまり"なかちん"は部屋の床に倒れたということだが、このシーンを観て改めて思ったのだが、映画の登場人物は、意外とこういったモノローグを(唐突に)語らない(実際に倒れているところを俯瞰で映す)か、或いは、語ったとしてもセリフに合わせてその情景のカットを入れたりする。

「演劇」として本作を観ると、明らかにテイストの違う「ロードムービー」と「青春物語(@下北沢)」の「二構成」になっていることがわかる(だから個人的には、「幕間」の意味で、二人が登場しない、下北沢の風景だけの気持ち長めのシーンがあってくれたらよかったのに、と観終わった後に思った)。

二幕は、現在住んでいる(住んでいた)下北沢に"ちばしん"と共に戻ってきた"ながちん"が、「会いたい人がいる」と"ちばしん"を連れまわすという、冒頭で書いたとおり「死者が所縁のある生者に会いに行く幽霊モノ」で、そのキーワードは「ダブルミーニング」だ。

その会いに行く生者の中に、ドッグカフェで働く"Uちゃん"(森高愛)がいる。
そのお店に入る勇気がない"ながちん"が、"ちばしん"に背中を押してくれるよう頼むのだが、上演台本では単に『告白するから背中押して』とあるだけだが、本作では状況がわからず戸惑う"ちばしん"に、"ながちん"が『ダブルミーニング。おして』と言う。
これは恐らく、上演台本のセリフを分割して、『背中押して』と、『告白するから(自分を"Uちゃん"に)推して』という意味での『ダブルミーニング』だと思われるが、本作、特に二幕に関しては、正しい意味とは異なるかもしれないが「ダブルミーニング」、要するに「二重の意味」に取れるシーンが多く見られる。

ベースにあるのは生者/死者、さらには生者と死者の入れ替わり。
出会い/別れ。愛/憎。

先の"Uちゃん"でいえば、「告白」には「付き合いたい」と「付き合えない」という二重の意味が込められている(結構、ウマい)。
愛/憎でいえば、バイト先の店長に対する想い。

他にもあるが、中でも秀逸なのが、"ながちん"行きつけのバーのシーン。
「バーの店内」と「外にあるトイレ」は、そのまま「この世」と「あの世」で、それを隔てるドアは「店外へ通じるドア」であり「天外へ通じるドア(Heaven's Door)」。
そして感動的なのは、ずっと自室に引き籠って死んだような生活を送っていた間、小学生の頃の自分が下北沢で生きていたのだと、"ちばしん"が知るシーン。
ここで"ちばしん"は、存在という意味において「生きているのに死んでいる」という「ダブルミーニング」から、一気に「生きている」という一つの意味に収斂する。と、同時に、バーの客たちにとっての"ちばしん"の意味も、『"ながちん"の思い出の人物』から、『現実の人物』へと収斂する。

……と、ここまで書いてきて、ふと思った。
収斂していくのは、実は"ちばしん"と"ながちん"の存在なのではないか?
というか、そもそも"ちばしん"と"ながちん"が「ダブルミーニング」なのではないか?

「会いたい人」に全て会った"ながちん"は、ようやく"ちばしん"をアパートへ案内する。その時"ながちん"は"ちばしん"に対し、引き籠っていたことを知っていたのに、それを救ってやれなかったと詫びるのである。

"ながちん"の部屋には"ちばしん"一人で入る。
室内は、ハニートラップに遭ったときに"ながちん"が語ったとおりだった(ラストシーンで劇中で語られたとおりの部屋が現出する、というのは、如何にも演劇的)。
"ながちん"の死体は映らないが、"ちばしん"の視線からがそこにいることはわかる。
"ちばしん"は時折の方に視線を向けるが、さして驚くでもなく、ごく自然に窓際の椅子に座る。
"ちばしん"は吸ったこともないのに、机に置きっぱなしにされていたタバコに火をつけ、吸う。初めは豪快にむせる。それでも吸う。次第に慣れてくる。

そこでタバコを吸っている男は誰なんだ?
男の視線の先にいる彼は誰なんだ?
バーのドアを開けて「外界」から戻ってきたのは"ながちん"だった。この部屋のドアを開けて「外界」から戻ってきたのは"ちばしん"だった。
バーの中にいたのは、30歳の"ちばしん"なのか、小学生の"ちばしん"なのか。
引き籠りの部屋のドアから男を「外界」へ連れ出したのは、本当に"ながちん"だったのか? それとも、バーにいた小学生の"ちばしん"なのか?
或いは、引き籠ってファミコンゲームに興じていたのは大人ではなく、小学生?

「ダブルミーニング」
その意味を考える。
「引き籠りの大人」と「小学生」の"ちばしん"。
或いは、"ながちん"という名の"ちばしん"……
わかっているのは、そこにはタバコを吸っている一人の男がいる、それだけだ(これも演劇的)。

メモ

映画『よっす、おまたせ、じゃあまたね。』
2023年6月21日。@渋谷・シネクイント

つらつら書いていたら、冒頭の言葉が宙ぶらりんになった。
あれは本作鑑賞後の私の率直な感想だ。
結局本作は「死者が生者に最後のお別れをする」という話でもあるわけで、現実ではなかなか難しい(死は予期できないし、余命を知った時には移動が難しくなっているかもしれない)が、"ながちん"のように「お別れできなかった人」「謝りたかった人」「告白したかった人」といった「心残り」がたくさんあれば、それが実現できるかもしれない、と思ったのである。
とはいえ、そう思ったからといって、50歳を過ぎている私のお化け嫌いが克服できるわけではなく、どんな事情であれ、できれば幽霊に出てきてほしくはないのだが。

本作、"ちばしん"と"ながちん"の二人が主役だが、それぞれ「観客」と「映画」という立場になっていて、だからきっと"ちばしん"がメインなのだろう。どんなに"ながちん"(=映画)が理解不能で強引だろうと、"ちばしん"(=観客)はそれを拒否できず、曖昧に笑って不承不承受け入れて流れに身を任せることしかできないのだから。


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