舞台『緑に満ちる夜は長く』
舞台『緑に満ちる夜は長く』(田村孝裕作・演出。以下、本作)の公式サイトで「あらすじ」を読んで、田村が所属する劇団「ONEOR8」の代表作である『ゼブラ』(2005年初演)のようだな、と思ったのだが、実際本作パンフレットによると、『ゼブラ』の男性版を書いてほしい、との依頼から始まったという。
両作とも、夫が出て行って女手一つで4人の兄弟(姉妹)を育て上げた母親の葬儀に、音信不通だったはずの夫(父)の連絡先を知った長男(長女)が彼を葬儀の場につれてくる、という話で、父親っ子だった三男(三女)が父の裏切りを絶対に許さないところも同じだ。
また、母親を交えた兄弟(姉妹)の子どもの頃のエピソード(各々自身が演じる)から始まり、現在と過去を行き来する、という構造も同じだ(さらには、『ゼブラ』2007年再演版では、長女の康子が『竹下通りに初めて行く』と彼氏と電話する回想シーンが描かれている)。
とはいえ、設定は同じでも『ゼブラ』と本作では、物語の出自がまったく違う。
パンフレットで田村は語る。
だから、四姉妹の距離感ゼロのあけすけな関係性が、共感の中に時に敵対し、時に連帯しといった様々なドラマを生む開放感があったのに対し、四兄弟の微妙な関係性はドラマを停滞させ閉塞感を生む(それは意図されたものであり、だからこそ『雪深い田舎町』の吹雪で身動きがとれない一軒家が舞台になっている。つまり、登場人物たちは父親を含め、誰も物語の状況から逃げ出すことができない)。
私は、この閉塞感がたまらなく辛かった。
それは、私自身が『ゼブラ』(特に、最終盤に奈央が独りで母と姉妹を思い出すシーン。本稿を書くのに2007年再演版のビデオを見直したが、やっぱりそこで号泣してしまった)に思い入れがあるせいでもあるが、それだけではなく、結局それが、2024年に私自身が生きている状況そのものだったからでもある(だから「辛かった」ではなく「身につまされた」と言うべきかもしれない)。
今の現実として、たとえ姉妹であったとしても、関係性の中で自身の言動に常に配慮せねばならず、それに疲れ切って「結局のところ、自分のことだけ考えていれば良し」と開き直るしかないのである。
本作は最終的に「誰かのためにしたことが、それ以外の人にとって為にならず、伝わらない」というコミュニケーション不全のやるせなさにつながっていく。
いや、元々普遍的な「誰かのため」なんてなくて、だから戦隊ヒーローたちは「地球の平和」なんていう漠然とした概念で戦っていて、だから「勧善懲悪」が成立する。
長男・ユウや次男・ゴウが母親や弟たちのために決断したことも、弟たち(特に、主人公である三男のカイ)には伝わらず、逆恨みされてしまう。
「誰かのために良かれと思ってしたこと」は、他者から「打算」と取られてしまう。
もしかしたら、そんなやるせない世の中を、我々は生きているのかもしれない。
だからこそ、我々が求めているのは、「自身のためだけの『絶対的な庇護』」なのではないか。
先に『ゼブラ』の最終盤の回想に触れたが、その母親の愛は四姉妹全員に向けられ、(姉妹各々はそう思っていなかったかもしれないが)庇護は平等に与えられていた。
しかし本作では、母親の庇護はユウにだけ向けられる(それはそれで感動的で、私は号泣してしまった。何より高橋由美子が素晴らしい)。
本作の後味は決して良くはない。
しかしそれは作品の良し悪しに直結しない。
何故なら、今現在を描くことも演劇の、物語の大事な役目であり、そこから何を受け取り、何を考え、これからの生き方にどう繋げていくのか、というのが芝居を観る意義なのだから。
メモ
舞台『緑に満ちる夜は長く』
2024年3月9日 ソワレ。@新国立劇場 小劇場
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?