誰の言葉なのか~舞台『メディスン』~

これは一体、誰の言葉なのか?

舞台『メディスン』(エンダ・ウォルシュ作、小宮山智津子訳、白井晃演出。以下、本作)の95分間間断なく放たれ続ける言葉の中で、しかし、その言葉は一体誰のものなのか、観客を惑わせ続ける。

病院らしき施設のなかの部屋。
そこに、パジャマ姿のジョン・ケインが入ってくる。
今日はジョンにとって年に一度の大切な日。
彼は質問を受けて準備をする、
「今日の調子はどうですか?」ーはい、元気です。
そしてまもなく、老人と巨大ロブスターがやってくる。
それは、メアリーという名前の二人の女性。
最後にドラム奏者が入ってくる。
こうして全員がそろうと、はじめ!のかけ声で、
ジョンは自分の人生について語り始める。

本作パンフレット「Story」

物語の設定としては、『病院らしき施設』にいるジョン(田中圭)のカウンセリングの一環として、彼記した彼自身半生の物語を彼自身に演じさせ、そのサポートとして、施設が雇った(であろう)音響兼俳優のメアリー(奈緒)と俳優のメアリー(富山えり子)と、音楽効果のためのドラム奏者(荒井康太)が派遣された……ということになる。

しかし、メアリーは早々に演出家のようになり場を支配し始め、最終的に「彼の言葉」が誰かにジャックされ、「誰の言葉」による誰の物語かということがわからなくなる。
ここで重要なのは「語られる彼の半生が事実なのか」ではなく、「その言葉は誰の言葉なのか」が問題だということだ。

難しく考えようとすればいくらでもできるが、きっと作者のエンダは正解を用意していない。

恐らくジョンが語る物語はラストが示唆するとおり、何度も繰り返されている。その中で、言葉は最初に戻れないほど多くの自己再帰を繰り返し、その中で生きる者たちにとって、言葉は分裂を起こし、自己乖離し、存在は相対化されてしまう。
それは、二人の女性がメアリーと、メアリー2となっていることからも明らかで、つまり、自己再帰を繰り返す中でメアリーは、自身(とジョン)の行動と物語を支配するメアリー2を生み出してしまう。
さらに言えばメアリーは、自身と同じ音響担当の女性がこの仕事の後失踪してしまうという噂を生み出し、自身と噂に乖離・分裂してしまう。
もっと言えば、メアリーはジョンの記憶の中にあるヴァレリーという女性と同一化した後、その存在を乗っ取ってジャックしまう(ジョンの物語に登場する人物は、予め録音された別の俳優の声が流される。ヴァレリーも当初は録音の声だったが、途中でメアリーを演じる奈緒の生声がシンクロし、最終的にヴァレリーの声に先んじてメアリーが発話するようになる)。

つまり、この物語はメアリーの物語だと言え、ジョンはメアリーが生み出した人物ともとれる。

ここで重要なのは先に書いたとおり「物語の信憑性」ではなく「それを物語る言葉は誰の言葉か」である。
ChatGPTに代表される生成AIは、多くの言葉を学習することによって成立しているが、それらが生成した言葉もまた学習の対象となりうる。その場合、AIは自ら生み出した言葉を自己再帰することになり、自己再帰した言葉から新たな文章を生成する。その文章は、元々の意味(そもそもAI自身には「意味」という概念はないが)を踏襲しているとは限らず、従って言葉は乖離・分裂していく。
終盤、錯乱したジョンが、自身の物語の断片を叫びまくるが、それはその言葉たちが自己再帰を繰り返す中で、意味(物語)が分裂・乖離してしまったことに気がつい(てしまっ)たからだ。

では、この、自己再帰を繰り返す物語は、誰が語っているのか?
本作の構造が巧いのは、ジョンが自分を語るだけでなく演劇に近づけようとしたところであり、それによってジョンが物語に抗い、しかし抗いきれずに、結局はからめ取られることが示唆されている。
それは物語冒頭、前日何かのパーティーがあったのか、部屋はその状態のまま放置されていてジョンが怒るのだが、そこに至るまでに、床をバミったテープ(位置決めではなく、エリアを区切るためのものなので、正確にはバミるとは言わないかもしれないが)に足を取られてしまう。怒ったジョンはそのテープを剥がしてしまう(つまりエリアを区切っていたテープの一部が剥がされ、エリアに出口ができる)。
彼は演劇的な要素に足を取られ、自分でそれを剥がしてしまうのだ。
だからそこに出口ができるわけで、彼は物語から抜け出そうとしているともとれる。
さらに言えば、上述したように、錯乱したところで彼の物語は破綻(したことが露呈)したはずだ。
それを物語の中に閉じ込めたのはー『自分の(ラブ)ストーリーが欲しい』のはー誰か?

メモ

舞台『メディスン』
2024年6月23日。@東海市芸術劇場 大ホール

東京公演が取れなかったので、愛知県まで遠征してしまった。
久しぶりに地方都市の公共劇場に行ったが、なかなか演劇(しかも人気俳優が出演する)が来ないためか、開場前から劇場外のロビーには多くの観客が集い、真剣に芝居を観ていたのが印象的だった。

ところで、本文では言葉(物語)の自己再帰から、メアリーとメアリー2の関係を見た。
しかし、「メディスン(薬物)」というタイトルを鑑みれば、全く逆のことが言える。
本文にも書いたが、『メアリーは早々に演出家のようになり場を支配し始め』るし、錯乱して『僕の頭は僕のじゃなかった』と叫ぶジョンに注射(薬物の投与)をするのはメアリーだ。さらに彼女は、「誰か」の指示・監視をほのめかし、最終的に「誰か」に報告すらしている。
ジョンに自身を物語らせている、或いはジョンの物語を語っているのは誰だ?
現実の物語作家たちの中には、自身が生み出した人物が物語を書き進めるうちに勝手に動き出す、と証言する者が少なくない。
もし、その勝手に動き出した登場人物が『僕の頭は僕のじゃなかった(僕の思考や言動は自身が発露ではなかった)』と気づいたとしたら……
最終的にジョンを(彼?の)物語に留まらせるのはメアリーだが、そのメアリーは彼を物語に留まらせるための「装置」として生み出された人物だったとしたら……

本作を音楽を担当するだけのドラマーを除いた三人芝居と見るならば、物語の構造は舞台『トランス』(鴻上尚史作、1993年初演)に似ている(結局、「誰が」の関係性が明らかにされないことを含め)。
或いは精神科の治療ということであれば『出口なし』(三谷幸喜作、1994年)と捉えることもできる(演技を媒介に同じシーンを繰り返すということ及び、メアリーとメアリー2の関係性をそう見るのであれば「多重人格」ということを含めて)。

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