映画『コーポ・ア・コーポ』

映画『コーポ・ア・コーポ』(仁同正明監督、2023年。以下、本作)を観て映画館を後にするとき、私は笑っていた。

大阪の下町の片隅にある「貧乏長屋」と言った方が適切だと思われる、お湯も出ない・風呂もない「コーポ」に住む住人たちは皆、どこかから逃げてきたような「ワケあり」だ。DV気質でヤクザともつながりがありそうな日雇い職人・石田(倉悠貴)、甘いルックスと架空の身の上話で複数の女性に貢がせている中条(東出昌大)、雇った踊り子にコーポの空き部屋でストリップをさせて日銭を稼ぐ宮地(笹野高史)など、どうしようもないクズばかり。
しかしそこに悲壮感がないのは、大阪弁のおかげでもあるし、何より本作がある種の「メルヘン」だからだ。

物語は家族との折り合いが悪く家を飛び出し「コーポ」に住み着いた辰巳ユリ(馬場ふみか)を狂言回しにして、住人個々のショートストーリーを見せてゆく。

メルヘンなのは、各ストーリーの登場人物の「ダンディズム」「ヒロイズム」を描いているからで、それは各々が「社会の底辺にいる」ことを自覚しているから持ち得たものだ。

私が男だからかもしれないが、石田が”普通”の女子大生・高橋(北村優衣)に「住む世界が違う」と言って去っていく姿や、本当か嘘かわからない太宰チックな中条の"本当"の身の上話はやっぱりグッとくるし、中でも、宮地が契約切れの踊り子と別れるシーンは鳥肌が立つくらいゾクゾクする。
つまり、本作は私が密かに憧れる「ダンディズム」「ヒロイズム」ーそれは「大人」の本質とも云えるーを体現してくれているのだ。

「大人」の本質と書いたが、つまりそれは「孤独」であることを意味し、社会や家族の一員である限りは表出し得ないものである。だから「コーポ」の住人は皆、独りだ。

しかし、孤独を自ら選んでおいて勝手といえば勝手なのだが、「自分はここにいる」ということを誰かに知っておいても欲しいのだ。
だから住人(というか物語自体)は、ユリを「よすが」にして、誰かとの関係を語っている。
タバコを交換したがるおばちゃん(藤原しおり)だって、タバコを交換することで自分の存在を譲り渡し、相手の存在を受け取りたいのだ。
物語がそれを描いているのは確実で、それはラストに現れる。
冒頭で自殺したと明かされる山口さんは、前日皆に借金を断られていたことが仄めかされるが、彼はお金が無いだけで自殺したわけではない。皆に「関係」を断たれて本当に「孤立無」になったことに悲観したのだ。ラストで「孤立無」ではなかったことが明かされ、それによって彼の自死が深い悲しみに変わる。

本作はユリの成長物語でもあって、つまり全ての縁を断ち切りたかった彼女は、物語上の狂言回しとして住人と関わることによって「存在を忘れられて生きることは出来ない」と知るのである。
だから彼女は、母親(片岡礼子)に自分を探して欲しかったのだ(本当に良いエピソードだった)。

コーポの表で住人たちが他愛ない話をするのを映画館で観ながら、私は何故劇場に行くのか、何となくわかった気がした。
私は誰かの存在を感じ、共に笑って泣きたかったのだ。たとえそれが見ず知らずの、たまたま同じ時間に同じ作品を観るために集っただけの関係であっても。

映画館を出る私が笑っていたのは、良い作品を誰かと共に観られたからだ。

メモ

映画『コーポ・ア・コーポ』
2023年11月18日。@TOHOシネマズ日比谷


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