映画『想像』を観ながら思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

『三月の5日間』という芝居を知ったのは、確か、作家・保坂和志氏が絶賛していた文章をどこかで読んだのがきっかけだったと思う。

『三月の5日間』は、劇作家・演出家の岡田利規氏率いる劇団「チェルフィッチュ」が2004年に初演した芝居だそうだ。

2003年3月、アメリカ軍がイラク空爆を開始した日を含む5日間の若者達の日常を描く。若者のしゃべり言葉をそのまま書き起こしたような戯曲と、そうした言葉によって引き出される無意識な体の動きを過剰に誇張した身体とのスリリングな関係性が、それまで当たり前とされてきた劇構造を根本から覆し、日本現代演劇の転機として語られるチェルフィッチュの代表作。2005年第49回岸田國士戯曲賞を受賞。2007年クンステン・フェスティバル・デザールにて海外初演以降、世界30都市以上で上演。

映画『想像』 パンフレットより引用

私がいつ保坂氏の文章を読んだのか失念したのだが、初演からすると2004年以降となるはずで、以来、保坂氏を含め、この芝居に言及している人たちの文章をいくつか読んではいるのだが、何故か私は、『三月の5日間』どころかチェルフィッチュの他の芝居も観たことがない。
根がミーハーなので、メジャーな芝居に目が眩んでしまい、他の芝居を観る余裕(主に金銭面で。何しろメジャーの芝居はチケットが高額)がないというのが大きな理由なのだが…

それら『三月の5日間』に言及した文章の趣旨は、概ねこんな感じである。

チェルフィッチュの岡田利規が『三月の5日間』(2004年初演)で行なった演劇(戯曲とその上演)における革新的な実験は、日本の現代演劇に強い影響を及ぼした。

佐々木敦著『これは小説ではない』(新潮社、2020年)

何が『革新的な実験』だったのか。

『三月の5日間』では、フィクションは基本的に演じられるのではなく語られる。そしてその「語り」の中に「演じること」も格納されている。俳優たちは自分に割り当てられた特定の役柄に扮するのではなく(扮するところもあるが)、場面ごとに設定されたしかるべき要請に従って、物語内の誰某の話を主に客観的に客に向けて語る。こう書くとややこしいが、要するにたとえば俳優Aが登場人物Xの体験を語っていくのだが、そうするうちにAはX自身であるかのように振る舞ったりもする。しかしAとXはイコールではないし、AはYの話もするし、AだけでなくBやCがXの話をしたりもするのだ。つまり役者と役柄が一対一対応しておらず、自由自在に切り離されたり組み合わされたりする。(略)
重要なのは、そこで行われていることがいわゆる一人二役とかいったものとはまったく違う、という点である。そういうことではなく、この作品に込められた岡田利規の最大の野心は、すでに述べたように演じるというよりも物語る、という点にこそある。誰かが他者に属する物語を語るとき、それはまったくの作り話でなければ「誰かから聞いた(あるいは読んだ)話」であらざるを得ない。岡田はこの「伝聞」という語りのモードを最大限に活用している。

『これは小説ではない』
※太字部、原文では傍点

長く引用したが、これを読んでもさっぱりイメージが浮かばない。

佐々木敦氏の別著『小さな演劇の大きさについて』(ele-king books、2020年)には、こんなことが書いてある。

チェルフィッチュは今年(2017年)、「活動二十周年記念」の一環として『三月の5日間』のリ・クリエーションを予定している。そのために二十四歳以下の男女に限定したオーディションも行われているが、どんな若手役者が起用されるのだろうかという興味以前に、「リ・クリエーション」の意味がどのようなものであるのかが注目される。


映画『想像』

前置きが長くなったが、この「リ・クリエーション」を追ったドキュメンタリーが、映画『想像』(太田信吾監督、2021年。以下、本作)である。

本作冒頭を観て私は、上記佐々木氏の説明に合点がいったと同時に、「これは凄いものが観られそうだ」という期待が膨らんだ。

なお、本作のタイトル『想像』は、岡田利規氏が俳優に繰り返し語る言葉であるが、それは同時に本作を観る観客にも「想像」が必要であることを示唆しているように思えた。

本作は、「リ・クリエーション」版の、オーディションから日本公演を経てパリ公演までを追っている(2016年~2018年。「リ・クリエーション」版の本番は『2017年12月から始まり、欧州ツアー等を経て19年春のオーストリア・ウィーン公演で幕を閉じる』)。

特徴的なのが、複数いる出演者の中で、対象人物を1人に絞り、かつ、シーンを限定して見せる構成で、それが観客の立場からは絶対に知り得ない「演出家の役割」「演出の効果」を実感できるしくみになっている。

私のような一般の観客が知り得る「稽古風景」は、テレビの宣伝番組やドキュメンタリー番組、または、販売用DVDの特典映像などであり、そうしたものは短期間の取材で、対象者も絞っておらず、どちらかというと「稽古の雰囲気」を伝えるものであることが多いため、本作の構成は、意外と貴重だろう。

俳優の演技に対し、演出家が「言語化」「視覚化」した「演出」をし、その演出に反応して俳優の演技が変わるのだが、おもしろいことに、「同一俳優が同一シーンで延々演出を受ける」のを繰り返し観ているうちに、観客は俳優の演技を理解できるようになってくるのである。

観客もわからないなりに俳優の演技を観て「何か」を感じてはいるのだが、それが何なのかははっきりしない。それを演出家が「言語化」してくれることにより、「そういうことか」と自身の感じた「何か」を具体化できる。自分の感じた「何か」と演出家の指摘が合っているとは限らないが、その場合は演出家の指摘にアジャストしていく。
同じシーンでそれが延々と繰り返されるため、観客も上記作業を繰り返すことになり、次第に俳優の演技が理解できた気になってくるのだ。
特に、上述のとおり『三月の5日間』は舞台セットも音響効果もなく、ただ俳優のセリフだけで出来ているため、より俳優の演技が理解しやすいように思える。

これが、「「演出家の役割」「演出の効果」を実感できるしくみ」なのだが、この「俳優の演技が理解できるようになる」感覚は、たとえば、ももいろクローバーZ主演の映画『幕が上がる』(本広克行監督、2015年)の原作である、平田オリザ氏の同名小説(講談社文庫、2014年)で、演劇部の部長・高橋さおりが部員に演出を付けながら考える、このシーンのようなものかもしれない。

秘密は分からないのだけど、吉岡先生は、舞台全体をよく見ている。私は、何か一つしか見ることができない。前に、どうすればいいのか先生に聞いたことがある。
「初めから全部見ようとしないで、役者に何度でもやってもらえばいいのよ。片方を見て、もう片方を見て、それぞれ集中して見てから、それから全体を見ればいい。稽古を繰り返すことを俳優に遠慮しちゃダメだよ」

つまり、本作の観客は「稽古を繰り返す俳優」を観ることによって、吉岡先生のようになった、ということである。
平田オリザ氏は、本作のパンフレットに『不屈の名作『三月の5日間』がなぜ名作なのかを、あらためて、深く思い知らされる。言葉の力のすごさ。そこに迫ろうとする俳優たちの気迫』とコメントを寄せている。

なお岡田と平田氏の関係について、演劇ジャーナリスト・扇田昭彦氏の『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』(河出書房新社、2015年)ではこう紹介されている。

ここ十年近く(引用者駐:執筆された2009年当時)、平田オリザが率いる青年団からは、岡田利規のチェルフィッチュ、前田司郎の五反田団を筆頭に、有望な若手劇団が次々に登場している。


余談だが、『稽古を繰り返すことを俳優に遠慮しちゃダメだよ』と言えば、劇作家でもある岩松了氏の演出は俳優陣から「千本ノック」と言われ、ダメ出しもされず「もう一回」と延々同じシーンを繰り返させることで有名らしい…。


「物語の構造」

『三月の5日間』は冒頭で引用したとおり、『2003年3月、アメリカ軍がイラク空爆を開始した日を含む5日間の若者達の日常を描』いた物語だが、上記で長々と佐々木氏の説明を引用したとおり、構造が複雑なのだ(しかも「リ・クリエーション」版は複雑さが増している)。

本作では芝居の冒頭である「ミノベ」の話に特化しているのだが、芝居を知らないで本作を観たら、冒頭の本読みのシーンでいきなり混乱してしまう(だから私は「凄いものが観られそうだ」と期待したのである)。

前出の『これは小説ではない』から引用する。

戯曲の名高い冒頭が男優1の「それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようと思うんですけど」であり、「ミノベって男の話なんですけど」とまもなく彼が言うことによって、観客はこれが「『三月の5日間』という演劇」というよりも「『三月の5日間』という物語を語る演劇」であるということをなんとなく理解する。

「ミノベ」は、六本木のライブハウスで出会った名前も知らない女性と渋谷のラブホで「ナマで即マン」し、しかもそのホテルにその女性と5日も泊まるのだが、それを男優1は「ミノベから聞いた話」として語る。
ところが、話の途中で「ミノベ」本人かと思うような語りになり、観客が混乱したところでまた、「…ていう話をしようと思うんですけど」と言い始めたりで、終始、語りが混乱・脱臼・脱線してしまうのである。

誰かが他者に属する物語を語るとき、それはまったくの作り話でなければ「誰かから聞いた(あるいは読んだ)話」であらざるを得ない。岡田はこの「伝聞」という語りのモードを最大限に活用している。「ミノベって男の話なんですけど」と宣言した男優1のみならず、『三月の5日間』の舞台上に現れる俳優たちは、自分自身ではない他人たちの話を語りながら、あたかも落語家が噺の途中で自由自在に噺の中の人物になってみせるように、いま語っている話に出てくる誰かになってみせたりする。

『これは小説ではない』

しかも、「リ・クリエーション」版は「男優1」ではなく「女優1」が「ミノベ」を語るため、より複雑さが増している。

この芝居、私は最後まで観たことがないからわからないのだが、最後まで観れば、それなりに理解できるのだろうか?

と不安になるのだが、きっと1回観ただけでは「え?なんだったの?」と混乱したまま劇場を後にするのではないだろうか。
だが、本作ではこの「ミノベ」のシーンが「演出付き」で繰り返されるので、(少なくとも「ミノベ」のシーンは)物語として(なんとなくでも)理解できるようになる。
なんて、ありがたい映画なのだろう。


「演技」って?

『三月の5日間』が演劇としてどう捉えられているのか?

『三月の5日間』は登場時、「超口語演劇」とか「超リアル演劇」などと評されていた。言うまでもなくこの形容は平田オリザの「現代口語演劇」に引っ掛けている。

『小さな演劇の大きさについて』

これは、前述のとおり岡田が平田氏の影響を受けているからでもあるが、『三月の5日間』で役者が語る「セリフ」は、「セリフ」のように聞こえない。
「ミノベって男の話なんですけど」にあるように、女優1は、短いセンテンスの語尾に「~ですけど」を付けて話す。

私はかつて、電車の中の女子高生たちが何でもかんでも語尾に「~とかいってぇ」と付けて話すのに興味を持ったことがある(何故かみんな会話の再現だったりする。「(人物名)が『それ、あれじゃん』とかいってぇ」「したら、(別の人物名)が「『えっ?』とかいってぇ」…)が、それと同じような感じ。

女子高生は自分の体験を自分の言葉で喋っているだけなのだが、『三月の5日間』の登場人物は俳優であり、語られることは自分の体験ではなく「戯曲に書かれたセリフ」であり、だからそれを語る俳優は当然「演技」している。
では、俳優が女子高生と同じように口語で喋る「演技」は、上手いのか、そうでないのか?


「演技」といえば、「身体性」も関係してくる。

『三月の5日間』は伝聞調のセリフをただ俳優が話すのだが、朗読のように椅子に座ったり直立不動というわけではない。普段の我々と同じように、話を補うような身振りをしたり、あるいは意味なく手をブラブラさせたり、ウロウロ歩いてみたり…。

本作を観ていて興味深かったのは、稽古序盤(本作の序盤でもある)、台本を持ったままステージに立っての本読みが行われるシーン。
左手に台本を持った俳優は、空いた右手をブラブラさせたり動かしたりする。その動きは「演技」なのか「俳優の癖(=素)」なのか判然としない。
そこで、岡田氏は『動きが拘束された状態でどうセリフが話されるのか知りたい』と、俳優に右手を動かさずにセリフを言うように指示する。

ここではつまり、俳優の身体性が意識されていることを示唆しており、だから、『三月の5日間』が芝居であり、そこで語られるのが「セリフ」である以上、動きもまた「演技」であるということを意味する(本作を観た限り、セリフを言いながらエチュード的に動かしていたものが、繰り返し稽古することにより、「慣れ」のような特定の動きに収束していく、という感じだった)。

「演技」である以上、それは「自然」ではない。だから、動きは誇張されている(はず)。
では、その「誇張の演技」は「演技として評価」できるのか?
評価するためには、普段の我々の「自然な動き」を意識化する必要がある(そうしないと「評価基準」が生まれない)。
そんなことを考え始めたら、「演技とは何か」の深みにはまってしまって、安易に「演技の評価」なんかできなくなってしまう。

まぁ、そもそも私は芝居を観ながら演技を評価することはしないのだが…

「しない」などと偉そうに書いてみたが、なんのことはない、単に「できない」だけであって、「芝居に夢中でそんなことを考える余裕がない」というのが主な理由なのだが、とあるテレビ番組の影響も多少あるかもしれないとも思う。
それは、NHK Eテレ『ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅲ 90'sリミックス』(2016年6月5日放送分)という番組内での、平田オリザ氏と劇作家・演出家の宮沢章夫氏との対談なのだが、そこで、『「歯が痛い」という演技はちょっと無理だろう』という話になった。

平田:「あの人、歯が痛いらしいよ」とか「あいつ、歯医者で大変だったんだよ、こないだ」みたいな方が、何故か人は信じてしまう。
宮沢:「歯が痛い」って言っているのは、「ウソ」だっていう可能性だって、かなりある。「ちょっと今日、腹が痛いので先に帰らせてもらいます」とか(笑)。舞台上で何かやってることが全てホントのことだってことはないわけで…

つまり、我々素人は、頬に手を当ててしかめっ面をしている俳優を見て「歯が痛いのだな」と思いがちだが、それ自体「(俳優が演じるという意味での)演技ではない」し、その俳優がやっている役の人物は「そういう演技をしているだけ」かもしれない(つまり、俳優は「『歯が痛いフリをしている人』を演じている」かもしれない、ということ。俳優本人は、歯が痛くないことは自明である。もし俳優自身が本当に歯が痛いのであれば、それこそそれは「演技」ではない)。


そんな本作は、芝居が上演されるまでの裏側を観ながら、観客自身、今観ている映像に関することだけでなく全然関係ないことも含め「想像」が尽きない、「観劇好き」にとっては、ものすごく面白い映画だと思う。

私自身はというと、冒頭で膨らんだ期待が萎むどころか、さらに大きく膨れてしまい、興奮のあまりこんな長文を書いてしまうほど、楽しんでしまったのであった。


ちなみに、「リ・クリエーション」公演を観た佐々木敦氏は、『小さな演劇の大きさについて』でこんな感想を述べている。

戯曲の基本的な物語は変わっていなかったものの、台詞はかなりアップデートされ、演出、とりわけこの作品の大きな特徴のひとつである「役者=役柄の切断と交換」が、より大胆に突き詰められていた。


おまけ

『三月の5日間』で「ミノベ」が観に行ったライブで演奏していたバンドのボーカルが、MCで『渋谷滞在中にデモ行進に遭遇して、そのままデモに加わった』という話をする(したらしい)。
曰く、『警官が囲んで、付いてくるのが面白かった』そうなのだが、私も渋谷でデモ行進に遭遇したことがある。

「大麻合法化」を訴えるデモ行進を先導・警護する警官たち。彼らの心中は如何に?
なかなかシュールな光景だった。
日本のデモ行進は確かにクールだ…

(2021年6月9日。@UPLINK吉祥寺)

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