露・伊・仏・瑞合作で描く 敗戦時の昭和天皇~映画『太陽』~(UPLINK吉祥寺【気がかりな映画特集】)

映画『太陽』(アレクサンドル・ソクーロフ監督、2005年。日本公開 2006年。以下、本作)は、「日本国」「日本人」にとって、とても不思議な作品だ。今までも、そしてこれからも、日本で生まれ育った人たちでは、絶対に制作不可能なのではないかとも思える。それは、良し悪しとか信条とかをはるかに超越した、もっと深い、言語化できないーたとえは難しいが、「春夏秋冬」を当たり前に受け入れているのと同じような-何かによる(まぁ、日本には映画『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督、1967年)があるし)。

21世紀、令和の時代において、恐らく大多数の日本人は天皇が「神」だとは思っていないだろう。しかし、では「(我々と同じ)人間」か? と問われたら、答えに窮してしまうのではないか。
理性では「人間だ」とわかってはいるが、しかし、心の裡では「"天皇"は"天皇"だ」と、よくわからない思いにとらわれるのではないだろうか。

何しろ、自身が自分の存在を測りかねているのだから。

ロシア・イタリア・フランス・スイス合作でロシア人監督によって撮られた本作に映っているのは「(現在で云う)昭和天皇」ではなく、「裕仁ひろひと」自身だ。
それは、を演じたイッセー尾形の演技と人物造形が素晴らしい(「イメージの中の昭和天皇」そのもの!)から、というのも理由の一つで、それが故に、の残酷なまでの「戸惑い」が表現されている。

本作が描いているのは、の、「神」としての不安定さ("不安"ではない)と、「神」故の絶対的な孤独だ。

それは冒頭早々に、侍従長(佐野史郎)に『最後に残る"日本人"は私だけである、ということには、ならないかね?』と問うシーンで現出する。
ここで彼は『自分を守るために国民全員が犠牲になるのでは?』という"不安"を吐露しているわけではない。何故なら、侍従長はこう返すからだ。

お言葉でありますが、それは皆、思い過ごしでありましょう。しかし、お上が"人間であるかもしれない"とお思いになること自体が、思い過ごしでございましょう。

朝、宮城きゅうじょう地下の防空壕で、侍従長らに監視されながら、独りで朝食をとる。香淳こうじゅん皇后(桃井かおり)らは、別の場所に疎開していたからだ。
その後の御前会議では、閣僚や軍幹部らが敗戦を受け入れるか否か(戦争続行)かで揉めている(本土決戦も辞さず戦争続行を強弁する陸軍大臣役の六平直政の圧巻の演技は見応え十分)。
研究所で一人生物学の研究をしながらも、の想いはいつしか開戦時の後悔や、国民が受けた苦難や屈辱に至る。そしてそれらを、お付きの者に口実筆記させたり、皇太子らの手紙に記そうとする。
は、家族のアルバムを開き、赤ん坊である皇太子を抱いた皇后の写真にキスをする(恐らく、日本で育った者には描けない。さらにその後の別の写真にキスしようとするシーンは、尚更……)。

は終始、自らが「神」であることに苦悩し、それを絶対に誰とも共有できないことに絶望的な孤独を感じている。
「神」であるが故に孤独であり、「神」であるが故に孤独なのにも拘わらず常に誰かから監視され続ける。本作はそれを執拗に描き出す。

が部屋に一人でいるシーンには、必ず誰かが覗き見しているシーンが挿入されるが、最終的にそれがが「神」と決別する心象につながる(見事な演出である)。
それは、マッカーサーとのディナーから帰ってきたが、お付きの老僕(つじしんめい)が監視しようとするのを高圧的に追い払うシーンだ。
一人になったは、こう呟く。

皇室と国と国民の利益に基づいて、私は自己の出自である「神格」を否定する。平安と発展と平和の名のもとに、「神格」という身分を自ら返上する。

そして、は解放されたかのように「ハハハ」と軽く笑うのである。

解放されたは、敗戦を受け入れたことによって疎開先から戻ってきた皇后に、子どものように甘えるのである。皇后の体に顔を埋めながらは、甘えたような声で言う。

私はね、成し遂げたよ。これで、私たちは自由だ。(略)私はね、もう、「神」ではない。この運命を、私は拒絶した。

頭を撫でながらを甘えさせる皇后役の桃井かおりが醸し出すほのぼのした空気は、その表情が豹変するラストシーンに効果的に生かされる。

物語のラストは、ある意味衝撃的だ。
皇后と手を繋いで部屋に入る時に、は侍従長に問う。

あの録音技師はどうしたかね? 私の「人間宣言」を録音した若者は?

侍従長の答えとその後のやりとりは、ここに書かない。
彼が「人間」になって味わったのは、「誰も救えない無力感」だった。

メモ

映画『太陽』(デジタルリマスター版)
(UPLINK吉祥寺【気がかりな映画特集】)
2024年3月25日。@UPLINK吉祥寺

「皇室もの(いわゆる「菊タブー」)」であるが故、日本では上映できないのではと言われていたが、勇気ある2つの映画館(その1つが、現在(2024年3月末)公開中の映画『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』(井上淳一監督)の舞台であるシネマスコーレだったのは(初代オーナーが若松孝二だったことを含めて)意味深い)が上映を始め、連日立ち見が出るほどだったという(以降、上映館が増え、現在ではDVDも発売されている)。
私はWOWOWで放送された本作を見た。
今回、UPLINK吉祥寺の企画で本作(しかも、デジタルリマスター版)をスクリーンで観られて、感無量である。

スクリーンで観て気がついたことがある。
それは、冒頭から(「戦時中」という意味の環境音でもなさそうな)ノイズというか、何かの機械音のようなものが流れていたということだ。
その音は終始、私に緊張と不安を強いた。
その音が止むのは、敗戦を受け入れたことを歓迎する意味であろう、大量のハーシーズチョコレートが占領軍から届けられたシーン辺りからだ。
実際、これ以降、物語上のは、少しコミカルな人物となっていく。
私に緊張と不安を強いたノイズは、「神」であることのの苦悩を表現していたのではないだろうか(チョコレートが届けられた時点で、は「神格」を返上する決意を固めていたのだろう)。

ちなみに『太陽』というタイトルだが……
アメリカの記者に自らの写真を撮らせる理由を侍従長に問われたはこう答える。

何故なら、闇に包まれた国民の前に『太陽』はやって来るだろう。


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